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忘れられた公爵令嬢〜前日譚〜  作者: 結城 洋乃
第一部

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02. ひとりぼっちの令嬢

 グランドール公爵家には、将来を嘱望された優秀な長男、エリオスがいた。

 父譲りの輝く白金の髪に、母譲りの深い紫水晶の瞳。若くして強力な地属性の魔法を自在に操り、また、その優しく温かな人柄で誰からも愛される、公爵家の誇りだった。


 しかし、一年ほど前——悲劇はあまりにも突然に訪れた。

 一家が避暑のために訪れていた別荘の近くで発生した、凄惨な襲撃事件。その痛ましい出来事によって、エリオスは十歳というあまりにも若すぎる死を遂げたのだ。

 大切な跡取りを失ったグランドール公爵家は深い悲しみに暮れ、それ以来、社交界からもめっきり姿を消していたのだった。


 ——それから、月日が流れ。

 悲しみの癒えきらぬ公爵家が久々に顔を出した王都の茶会は、色とりどりの菓子が並び、穏やかな音楽が流れる明るい雰囲気に包まれていた。

 煌びやかな社交の場に活気づく人々、歓談する貴族たちの楽しげな笑い声が響く。


 だが、その華やぎの渦中で、五歳になったフィーネだけが、ぽつりと取り残されたように佇んでいた。


 挨拶に押し寄せる貴族たちの対応に追われる両親が目を離したわずかな時間。賑やかな会場の居心地の悪さに耐えかねたフィーネは、そっと会場の隅にある柱の影へと身を引いた。

 不意にそんな彼女の耳に、どこからか小さな囁きが滑り込んでくる。


『あれが、グランドール公爵家の……』


 顔を上げれば、会場の離れた場所で、大人たちが自分や両親の方にチラチラと視線を向けながら、何かを話しているように見えた。

 何を話しているのか、すべてが聞こえるわけではない。だが、時折喧騒が途切れた隙間を縫うように——一人で佇む彼女のもとへ、その無慈悲な噂話のいくつかが鮮明に届いてしまった。


『確かに愛らしいけれど……あの優秀な跡取りを失ってしまうなんて。十歳にして地属性魔法を使いこなす天才だったのでしょう?』

『公爵様もさぞ気を揉んでおられるでしょうね。……せめて、失われたのがあの魔法も使えない妹君の方であったなら、まだよかったものを』


 悪意すらなく、ただ憐れみや世間話として放たれる言葉たち。その鋭利な刃物のような切っ先が幼い心に突き刺さった瞬間、胸の前で強く握りしめた彼女の小さな拳が、かすかに震えた。


(……私さえ、いなければ)


 かつて、あののどかな春の庭園で、ただ無邪気に微笑み合い、優しく頭を撫でてくれた兄は、もうどこにもいない。

 あの日、自分が「湖が見たい」と言わなければ。自分が足手まといでさえ、なければ——


◆◆◆


 静かな湖畔の空気を引き裂くような、大勢の男たちの荒々しい怒号と、交戦する護衛たちの剣が激しく打ち合う音。


 次々と倒れ伏す護衛たちを前に、わずか十歳だったエリオスは、フィーネを近くの岩陰へと押し込み、自らも魔法で無数の岩の槍や土の障壁を展開して必死に男たちに応戦していた。


 だが——乱戦の隙を突き、岩陰を迂回した男の刃が、身を縮めるフィーネへと向けられた、まさにその時。


「フィーネ……っ!!」


 エリオスは地面を蹴り、魔法の詠唱も展開もすべてを投げ打って、妹の元へと飛び込んでいた。

 無防備な身体で幼いフィーネを力いっぱい突き飛ばし、自らが身代わりとなるように立ち塞がる。

 直後に響いた、耳を覆いたくなるような肉の切れる不快な音。


「ぐ……っ、あ…………!」


 次いで上がった呻き声に、倒れ込んでいたフィーネは反射的にそちらに顔を向けた。

 視界に飛び込んできたのは兄の身体を貫通する剣と――広がる血飛沫。


「……に……、兄さまっ……!?」


 喉から飛び出したのは、悲鳴ともつかない引きつった声。その声に反応するように、ガクリと膝をつき倒れ込みながら、エリオスは最後の力を振り絞ってフィーネの方へと顔を巡らせた。


「……ィーネ……逃げ……るんだ……っ」


 痛みに顔を歪めながらも、その瞳には最期まで妹を案じる温かな色が宿っていた。

 その絞り出すような声だけを残し、エリオスは力尽きて崩れ伏した。伸ばされた手が――いつも優しく自分の頭を撫でてくれた温かな手が、真っ赤な血に染まって力なく落ちる。


「……兄、さま……?」


 ピクリとも動かなくなった身体と、急速に光を失っていく紫の瞳。頭がその現実を拒絶しようとしても、滴り落ちる血の赤が、もう二度と兄が目を覚まさないのだと残酷に物語っていた。


 胸の奥から押し寄せる絶望が、濁流のようにフィーネの精神を呑み込んでいく。


「いや……やだぁぁぁっ!! 兄さま、兄さま……兄さまぁ!!」


 悲痛な叫びとともに、幼いフィーネの意識は真っ暗な闇の中へと吸い込まれていった——


◆◆◆


「……っ……!」


 ハッと現実へ引き戻されたフィーネは、詰まらせていた息をゆっくりと吐き出しながら胸を押さえると、乱れた動悸を静めるように深く目を閉じる。


 ――あの後、次に目覚めると、フィーネは別荘のベッドの上にいた。曖昧な記憶の中、幼い彼女の脳裏に唯一焼きついているのは、エリオスを失った悲しみに泣き崩れる母の姿と、父の慟哭。


 後から聞かされた話では、駆けつけた父たちに保護された時、なぜか襲撃者たちは全員倒れていたらしい。けれど、意識を失っていたフィーネには、なぜ自分だけが無傷で生き残れたのか、理由も何も分からなかった。


 分かっているのは、あの日の幼い自分の我儘のせいで、魔法が使えてあんなに強かった兄が、自分を庇って命を落としたという残酷な事実だけだった。


(全部……全部私のせい……。私が……兄様を死なせた……)


 周りの貴族たちの言う通りなのだ。自分が生きていて、あの優しくて優秀な兄がもうこの世にいないなんて間違っている。


(……私さえいなければ、兄様は死なずに済んだのに――)


 自分が代わりに死ねばよかった。いや、そもそも自分が始めからこの世に存在しなければよかったのだ。そうすれば、父も母も、こんなに傷つかずに済んだのに。


 とっくに枯れ果てたと思っていた涙がみるみる視界を覆っていく。


(……だめ、ここで泣いちゃいけない)


 人前で取り乱して、これ以上両親に恥をかかせるわけにはいかない。

 フィーネは溢れそうになる涙を必死に押し留めながら、気づかれないように集団から距離を取った。人目のない暗い回廊へ逃げ込み、壁に背を預けて冷たい石床の上にぺたりと力なく座り込む。


「……ごめんなさい……兄様……」


 誰にも見られぬよう声すら殺して、幼い令嬢はただ静かに涙を流した。


◇◇◇


 やがて茶会が終わり、屋敷へと戻る馬車の中でも、フィーネは両親と一度も目を合わせることができなかった。

 本当は、両親の瞳の奥にも「お前が死ねば良かったのに」という疎ましさが浮かんでいるのではないか――そう思うと、顔を見ることすら怖かったのだ。


「……フィーネ? どうした?」


 父が心配そうに声をかけてくれても、フィーネは俯いたまま固く口を閉ざして首を振るだけだった。両親は顔を見合わせ、急に様子がおかしくなった娘を困惑したように見つめていた。


 屋敷に到着するや否や、フィーネは逃げるように馬車を降りると、自分の部屋へと駆け込んだ。


「お嬢様、お帰りなさいませ――」


 出迎えてくれた専属侍女のジーラに返事を返す余裕もなく、フィーネは自室の重い扉を閉め、鍵をかけてベッドへともぐりこんだ。


「フィーネ? どうしたの、開けてちょうだい」


 扉の向こうから、心配してやってきたらしい母の声と、扉をコンコンと叩く音が響く。けれど、フィーネは返事をすることができなかった。

 暗い部屋の中で、フィーネはただ膝を抱えて丸くなる。


 温かな光に満ちていた家族の時間を壊してしまったのは……自分なのだ。

 自分が生きていることそのものへの深い罪悪感に苛まれながら、幼い彼女は部屋の中に閉じこもり、一人、暗闇の中で震え続けるのだった。



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