18. 溶けてゆく心
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った自室で、フィーネはベッドの縁に腰掛け、静かに溜息を吐いた。
重ねた手のひらに残る、アヴィの温かな体温。指を深く絡め合わされた瞬間の胸を焦がす熱。それを思い出すだけで、胸の奥が甘く締めつけられる。
社交界において、同じ相手と三曲続けて踊るということが意味する重み——それは言葉にしない「事実上の婚約宣言」に他ならない。
明日には、王都中の貴族たちの間で「第一王子殿下の婚約者はグランドール公爵令嬢で内定した」という噂が駆け巡ることだろう。
『……この手を、この場所を、もう二度と誰にも譲りたくないんだ。だから……もう一曲、私に付き合ってくれるかい?』
あの熱を孕んだ声に呼吸が一瞬止まった。その言葉の意味が、二度目の婚約の打診だと悟ったからだ。
いつまでも保留にしておくことはできないと分かってはいた。だが、今の関係の居心地がよすぎて、この関係を壊したくなくて、一歩が踏み出せなかったのだ。
婚約を受け入れるということは、自分がこの国の次期王妃になるということ。無能な身で、そんな大それたことを望んでいいのだろうか。あの優しい王子様の隣を望むこと自体が、罪深いのではないか、そう思っていた。
だが、一度目の婚約打診の時のように、辞退するということも、今のフィーネには言えなかった。知れば知るほど、アヴィという人間の誠実さが、優しさが、温かさが……自分にとって手放したくない宝物のように降り積もっていた。
握りしめられた手と、そこに込められた彼の熱い想い。あの時、ただ無性にその覚悟に応えたいと思った。
邸に戻る馬車の中で、勝手なことをしてしまったと謝る自分に、両親は優しい微笑みを浮かべて「自分の思う通りにすればいい」と言ってくれた。
もし、本当に、自分の思うままに生きることが許されるなら――
(殿下の隣に、私もいたい……)
キュッと胸元を握りしめながら、フィーネは窓の外の夜空を見上げた。
◇◇◇
数日後。公国の要人が帰国したと、アヴィから手紙を受け取ったフィーネは、彼からの茶会の誘いを受け、王城へと向かった。
自分の選択をアヴィに伝えなければと、己を奮い立たせながら。
だが——静かな王城の回廊を歩いていた時のことだった。いつもの東屋へ続く角の陰から、立ち話をしている貴族たちの微かな囁き声が耳に飛び込んできた。
「先日の夜会の話をお聞きになりました? 第一王子殿下とグランドール公爵家のご令嬢の……」
「見苦しくも殿下に色目を使って、三曲も踊っていたそうね。高潔でお優しい殿下ですもの。公爵家の悲劇への同情と責任感でお相手されていたに違いないわ。……本当に殿下を想うなら、自分から身を引くべきなのに」
その言葉にヒュッと息が止まった。しばらく聞いていなかった、自分に対する直接的な蔑みと非難の言葉。それがフィーネの心に突き刺さった。
「グランドール公爵閣下もお気の毒ですな。優秀だった嫡男を亡くし、いまや残されたのはあの無能な娘だけなのでしたか」
「確か、あの妹君を庇って亡くなられたのですよね……。お可哀想に」
興が乗っているのか、とめどなく続く陰口。おぼつかない足取りでフラフラと壁に寄り掛かるように手をついたフィーネの足は、立っていられないほどに小刻みに震えていた。
(……息が、苦しい)
知っている。自分が一番、理解している。命を落としたのが兄でなく自分であれば、父も母も、ここまで苦しまなくて済んだ。こんな風に他人に陰口を囁かれることもなく、堂々と過ごしていられたのに。
(私が……いなければ……。兄様が、私なんて庇わなければ……)
アヴィと過ごしていた最近は考えることが減っていた自責の念が、再び大きく頭をもたげた。温かい日々を過ごしていた分、そんな自分の罪深さが、以前にも増して強くフィーネの心を苛んでいく。
(……同情と……責任……)
そう、なのだろうか。
ここしばらく影を潜めていたはずの、人の言葉の裏側を邪推してしまう癖が、かつての何倍もの猛毒となって蘇る。
夜会の時の、アヴィの熱を孕んだあの言葉を思い出す一方で、あれは本当に彼の本心だったのだろうか、と疑ってしまう。
もし、心の奥底では疎まれているのだとしたら――?
(……兄様を死なせた私なんかが、幸せになるなんて許されるはずがない……。私では、やっぱりあの方の隣に相応しくない……)
悲しみに唇を噛み締める。小さな身体には収まりきらないような巨大な絶望と罪悪感に視界が歪み、大粒の涙が頬を伝おうとした――その時だった。
ギュッと後ろから温かな体温に包まれた。壊れ物を扱うように繊細で、けれど決して逃がさないという強い意思と力が込められた抱擁。
ハッとして首を動かすと、耳元の、自分よりも少しだけ高い位置から聞こえる静かな息遣いがあった。
視界の端に映ったのは、陽光を溶かし込んだような輝く金髪と、厳しさと情熱を宿した美しい碧色の瞳――第一王子、アヴィ・シルベスターだった。急いで来たのか、わずかに息を乱している。
「殿……下……?」
「……あんな言葉、気にする必要はないよ」
震える声で尋ねるフィーネに、アヴィは彼女の白金の髪に顔を寄せるようにして、低く声を絞り出した。その声音には、くだらない会話に興じる大人たちへの、隠しもしない苛立ちが滲んでいた。
「……でも」
(あの言葉は、事実だ。命を落としたのが自分であればすべて――)
そんなフィーネの心の声を遮るかのように、アヴィは強い口調で続けた。
「――公爵も、公爵夫人も、君を愛している」
「っ……」
「君がいなければ、なんて、君を知る人は誰も思っていない。――勿論、この私も」
いつも優しく穏やかなアヴィとは思えない、力強い口調。そして自分の存在を肯定してくれる言葉に、フィーネの心が震えた。抑えきれなくなった熱い雫が、瞳から零れ落ちる。
「……私はね、フィーネ嬢。君が生きていることが嬉しいんだ。君が私に微笑みかけてくれる時間が、何よりも愛おしい。君が『魔法が使えない』からといって、君の価値が揺らいだことなんて、ただの一度だってない」
アヴィはゆっくりと腕の力を緩めると、フィーネの肩を優しく掴み、そっと自分の方へと向き直らせた。
アヴィの温かな手がそっと伸び、フィーネの濡れた頬を優しく撫でる。
「君は、そこにいてくれるだけでいい。生きていてくれるだけで、十分なんだよ」
そのどこまでも温かく、相手を包み込むような言葉に、フィーネの中の押し殺していた感情の堤防が、音を立てて決壊していく。
(……ああ……私……)
兄を失ったあの日から、ずっと胸の奥底に閉じ込めていた一番暗い恐れと罪悪感。
誰にも言えず、一人で抱え込んできた悲鳴と、望んではいけないと封じ込めてきた願いが、嗚咽とともに喉から溢れ出た。
「私、は……ここにいても、いいのでしょうか……っ? 大好きな、お父様とお母様の傍に……生き続けていても、いいのでしょうか……?」
「当然だよ」
「私はこの先も……あなたの……アヴィ、様の、お傍にいても、いいのでしょうか……っ?」
フィーネが震える手で、自分の頬に触れたままの温かなアヴィの手を掴んだ。
アヴィは胸を突かれたように目を見開くと、たまらず目の前の少女を再び強く抱きしめた。その小さな背中を、愛おしそうに何度も、何度も優しく撫でおろす。
「……フィー。大丈夫、私は何があってもずっと君の傍にいるよ」
その声は静かな回廊の空気に優しく溶け込み、フィーネの傷ついた心の一番深いところへと染み渡っていく。
「誰が何を言おうと、私が君を守る。だから……どうかもう自分を責めないで」
「アヴィ……様……っ」
フィーネはアヴィの胸に顔を押し当て、こらえきれずにしゃくりあげた。溢れ出す涙がアヴィの服を濡らしていく。だが、その涙はもう、自分を責め続ける冷たいものではなかった。
(……ああ、そうか……)
アヴィの温かな腕に包まれながら、フィーネはようやく理解した。心ない噂を流す人々や、自分を「無能」と蔑む者たち――そんな万人に好かれる必要なんて、最初からなかったのだと。
大好きな両親がいて、そして何より、こんなにも真摯に自分を肯定し、寄り添ってくれるアヴィがいる。
(私にとって一番大切な人たちが、私を愛してくれている。私を、信じてくれている……)
自分が耳を傾けなければならなかったのは――信じなければならなかったのは、自分や家族の内実を知りもしない、世間の心ない声などではない。
(私は……アヴィ様の言葉を信じたい)
彼の言葉ならば、信じられる。そう確信した瞬間、胸の奥に燻っていた「自分なんて」という迷いが消えていった。残ったのは、澄み切った確かな強さ。
彼のくれた言葉と愛こそが、自分にとっての絶対的な真実。
(相手の心なんて、誰にも分からない。なら……自分にとっての真実は、自分で決めよう)
兄を失ったあの日から止まっていた少女の刻が、動き出していく。
フィーネはアヴィの胸に顔を埋めたまま、彼の背中に回した小さな手に、ぎゅっと静かな、けれど確かな力を込めたのだった。




