17. 譲れないもの
軽快な曲が終わりを告げ、演奏の残響が広間へと静かに溶けていった。無事に一曲を踊り切ったフィーネが静かに手を引き、ルベールと社交のお辞儀を交わそうとした時だった。
「フィーネ嬢、その……もしよければ、もう一曲お相手願えませんか?」
名残惜しそうな表情をしたルベールが、改めて彼女の手を軽く握り直そうとする。
「え、いえ私は――」
「――そこまでにしてくれるかい、サイモン公爵令息」
困惑し、身を引こうとしたフィーネの耳元に降ってきたのは、冷ややかに澄んだ声音。振り返れば、そこには第一王子のアヴィが立っていた。壇上にいた時と同様に完璧な王子の気品を纏い、静かにルベールを見据えている。
「……で、殿下……!?」
「彼女とはあらかじめ、ダンスの約束をしていてね。――譲ってもらえるかな?」
「え……約束、ですか」
反論を一切許さぬ静かな圧力に、ルベールは言葉を失って一歩退いた。そんな彼に優雅に会釈を返すと、アヴィは呆然とするフィーネの手を取り、フロアの中央へと導いていく。
「あ……あの、殿下……?」
珍しく硬くなっている彼の表情と、力のこもった指先。フィーネが恐る恐る声をかけると、その声に気づいたアヴィは、ハッとして手元の力を緩めた。
「……すまない、少し強く握りすぎてしまったかな」
苦笑いを浮かべ、アヴィは周囲に聞こえないほどの小声で囁いた。
「……父上たちから言われていた外交としての責務は果たしてきたよ。……そのせいで、君を一人にしてしまって、本当にすまない。今も強引に連れ出すような真似をしてしまって……」
「そんな、謝罪なさる必要など……!」
申し訳なさそうに眉を下げるアヴィに、フィーネは慌てて首を振る。けれど、アヴィは切なげに目を細めた。
「……私自身が許せなかったんだ。立場や責務を言い訳にして君から離れ……他の誰かの手に渡してしまった自分を。……胸が焼けるように悔しくて、苦しかった」
「殿下……」
あまりに率直で切実さのこもった言葉に、フィーネの頬がじわりと熱くなる。
その時、次の曲のイントロが静かに鳴り響き始めた。アヴィはそっとフィーネの腰に手を回すと、優雅にステップを踏み出す。
黄金の髪を揺らす第一王子と、白金の髪の公爵令嬢。二人のステップは幼いながらも目を見張るほどに調和し、フロアの視線を一瞬で奪い去っていった。
「……フィーネ嬢とダンスを踊るのは、これが初めてかな」
耳元に落ちてきたのは、先ほどまでの激しい葛藤を押し隠した、アヴィの優しく穏やかな声音だった。引き寄せられた背中から伝わる手の温もりに、フィーネは少し緊張しながら見上げる。
「はい、ですが……私、そこまでダンスは得意では……」
「大丈夫。私に任せてくれればいいよ」
耳元でそう囁くアヴィの引き寄せる手は優しく、けれどどこか力強い。重なる手のひらから伝わる温もりに、フィーネはふっと緊張を緩めた。
「お茶会のときとは違って……なんだか少し、照れてしまいますね」
「……私もだよ。でも、君とこうしている時間が、やっぱり一番落ち着くんだ」
息を合わせ、曲の旋律に身を委ねる二人。重ねた手から伝わる確かな温もりに包まれるうちに、曲は静かにクライマックスへと向かっていく。
やがて曲が終わり、広間に束の間の静けさが訪れた。フィーネが小さく息を整え、そっと手を引こうとした――その時。
(……え……?)
重ねられたアヴィの指先が解かれない。それどころか、フィーネの顔をじっと見つめたまま、アヴィは無意識のように、次の曲のステップを踏み出してしまったのだ。
「っ……で、殿下……!?」
フィーネは驚きで目を丸くした。婚約関係にない者たちが、夜会で特定の相手と連続で踊るということは、一般的に「特別な意思表示」を意味する。
広間のあちこちから、驚きと感嘆の小さな吐息が漏れ始めた。
「……あのアヴィ殿下が、同じお相手と……?」
「先ほどの公女殿下は賓客のもてなしだとして……もしや、今回はそれ以上の意味では……?」
ひそひそと囁かれる周囲の視線と、胸元で戸惑うフィーネの声に、アヴィは我に返ったように瞳を揺らした。
「……っ」
自身が何をしてしまっているのか、今さら理解したのだろう。アヴィの頬が微かに朱に染まる。本来であれば速やかに手を離し、無礼を認めて引き下がるのが第一王子としての正解だ。
――けれど。
アヴィの指先は、フィーネの手を握りしめたまま、どうしても離れようとはしなかった。力任せに縛り付けるような強引さはない。ただ、宝物を手放すのを怖がるような、切ないほどの必死さが感じられた。
「……殿下……?」
戸惑いながら見上げるフィーネに、アヴィは困ったように眉を下げ、熱を帯びた碧眼でじっと見つめ返した。周囲には聞こえない小さな声で、絞り出すように囁く。
「……すまない。分かっているんだ……周りが驚いていることは……」
「殿下……」
「……けれど、この手を……離したくないんだ。離して……他の誰かにこの温もりを譲ることなんて、できない……っ」
いつも冷静なアヴィの、見たこともないほど必死な眼差し。手から伝わってくる温かな体温に、フィーネの胸の奥がキュッと甘く締めつけられた。
ふと脳裏を過ったのは、公女と踊るアヴィを遠くから見つめていた時の光景。あの瞬間、胸の奥に芽生えていたのは、寂しさと羨望と――そして、小さな嫉妬だった。
フィーネはそっとアヴィの手を握り返し、どこか照れたように可憐な微笑みを浮かべた。
「……私も、殿下が公女殿下と踊られているのを見て……ほんの少し、寂しかったのです。ですから……もう少しだけ、お側にいさせていただけますか?」
「っ! フィーネ嬢……っ」
感極まったように名を呼ぶと、アヴィは重ねた手にぐっと力を込め、一層愛おしそうに彼女を引き寄せた。
◇◇◇
二人で踊る二曲目の旋律。徐々に見えてくる終わりの瞬間に、アヴィの心には焦燥が満ちていた。
(……終わらせたくない。離したら、また――)
脳裏を過るのは、ルベールと踊る彼女を見た時の苦い悔しさ。この手を離せばまた、他の誰かにこの温もりを奪われてしまうかもしれない。
フィーネの手に自分の手を添えたまま、アヴィは心の中でわずかに逡巡する。
二曲目までなら、まだ「強い好意の表れ」として周囲に言い訳が立つ。だが、ここからさらに三曲目を踊るとなれば——それは社交界において、第一王子アヴィ・シルベスターがフィーネ・グランドールを『未来の妃』として正式に指名し、公言することと同義だ。
周囲の貴族たちが「まさか……三曲目も踊るおつもりか?」と、固唾を呑んで見つめている気配を感じていた。
この場で私的な婚約宣言に近い行動を起こしてしまえば、外交上の主賓である隣国の大公夫妻や公女への配慮を欠いたと、後で厳しく咎められるかもしれない。
何より——自身が魔法を使えないことを気に病み、「自分なんて」と不安げに瞳を揺らすフィーネの退路を、大勢の前で強引に断ってしまうことになる。
(……自分の意思で頷いてくれるまで、いつまででも待つつもりだったのに)
だが、気づいてしまった。ただ優しく待っているだけでは、彼女を不安なまま一人にし、こうして他の誰かに奪われかけたり、周囲の悪意に晒したりしてしまうのだと。
それでは——本当の意味で彼女を守ることなどできない。
(……すまない、フィーネ嬢。……私はもう、待ってあげられそうにない)
過去のトラウマに引け目を感じている彼女の心も、世間の心無い噂も、彼女自身の不安も、すべて自分がこの手で拭い去ってみせる。
王子の気品を纏った優雅な立ち居振る舞いは崩さぬまま、けれど碧眼の奥に揺るぎない絶対の情熱を宿し、アヴィはフィーネを真っ直ぐに見つめた。
周囲には届かないような小さな声で、彼女にそっと囁くように告げる。
「……すまない、フィーネ嬢。やっぱり私は……この手を、この場所を、もう二度と誰にも譲りたくないんだ。だから……もう一曲、私に付き合ってくれるかい?」
フィーネが小さく息を呑んだのが分かった。三曲目を踊ること——それが何を意味するのか、聡明な彼女が理解できないはずがない。
重ねた指先が一瞬、躊躇するように震えた。瞳の奥に戸惑いと、背負うべき未来の重圧に対する恐れが揺らめく。強引に彼女の逃げ場を無くしてしまったことに、わずかに胸が痛んだ。
それでもアヴィは視線を逸らさず、指先に溢れんばかりの熱と覚悟を込めてその手を握りしめた。
その熱に応えるように、ゆっくりとフィーネの瞳から揺らぎが消えていく。赤く染まった頬とは裏腹に、見つめ返してくる眼差しには、アヴィの覚悟をすべて受け止める確かな光が宿っていた。
そっと握り返された小さな手のひらから、温かな信頼が伝わってくる。
「……はい。私でよろしければ」
凛としたその答えに、アヴィの碧眼からふっと緊張が抜け、どこか愛おしそうな熱が宿る。
「……ありがとう、フィーネ嬢」
かすかに掠れた声で感謝を告げると、アヴィは握りしめていた手にそっと指を深く絡め直した。 周囲の驚愕や静まり返る会場の空気など、もう意識の端にすら残っていない。引き寄せられるように、二人はそのまま三曲目のワルツへと滑り出していった。
重ねた手から伝わる熱と、激しく鳴り響く胸の鼓動。内側から溢れ出す情熱に触れた瞬間、アヴィの脳裏に、あの東屋で彼女がかけてくれた愛おしい言葉が鮮やかに蘇る。
(――あぁ、あの日彼女が教えてくれた言葉は、本当だったんだ)
自分は感情のない冷たい人形などではない。
この可憐で気高き少女を生涯かけて愛し、守り抜くために――自分の中には、こんなにも熱い血が通っているのだと、アヴィは確信していた。
(――生涯、君を離さない。誰にも渡さないよ)
もはや周囲の歓声もざわめきも二人の耳には届かない。熱気に満ちた光の中で、アヴィはただ一人の愛しい少女だけを見つめ、永遠を誓うように深く微笑むのだった。
◇◇◇
一方、大広間を見下ろす二階のバルコニーでは。
欄干に身を乗り出すようにしてフロアを見つめていた国王ダリスが、バルコニーの反対側に佇む大公夫妻からの刺すような視線を遠くに感じながら、優雅にワイングラスを傾けていた。
隣国からの強引な打診——公女と自国の第一王子の縁談をどう断るか頭を悩ませていた彼にとって、息子の暴走はまさに天啓だった。
「……大公殿下のあの顔を見たか? 腹の虫が治まらんという顔だ」
周囲に人がいないことを確かめ、グラスの陰でダリスが低く愉しげに囁く。傍らにいたジェラルドもまた、大公夫妻には一瞥もくれず、表情一つ変えずに視線を下のフロアへ向けた。
「フッ……アヴィ殿下のおかげで大公夫妻の企みも綺麗に潰れましたな。これであの不毛な縁談も、角を立てずに正式にお断りできますでしょう」
「まったく……我が息子ながら、親の苦労も知らんで暴走しおって。後でたっぷり小言を言ってやらねばな」
呆れたような言葉とは裏腹に、ダリスの口元には満足げな笑みが浮かんでいた。そんな国王の様子に、ジェラルドはふっと目元を緩める。
「それにしても……まさか、あんなに感情を表に出さず、何事にも冷めていた我が息子が、ここまであからさまに一人の少女に情熱を注ぐとはな。まだ正式な婚約もしていないというのに……せっかく非公表にしていた意味がまるでないじゃないか」
グラスを再度傾けながら苦笑するダリスの隣で、ジェラルドもまた感心したように深く頷く。
「ええ……正式に婚約が成立する前からこれほどの情熱とは……第一王子殿下の重厚な愛には頭が下がります」
「あのアヴィの必死な顔を見ろ。我が息子の方が彼女に救われ、骨抜きにされているのだよ。……見ていられんほどの熱だが、実に誇らしく、いい顔をしているじゃないか……。だが、娘をいずれ嫁に出す父親としては、少々複雑なのではないか?」
国王の冗談めかした問いかけに、グランドール公爵はどこか柔らかく、温かな眼差しで踊っている愛娘を見つめた。
「……いいえ。エリオスを失って以来、笑うことにすらどこか罪悪感を感じているようだったあの子が、殿下の隣では実に幸せそうに微笑んでおります。……親として、これ以上の喜びはございませんよ」
そう言って、親友でもある王と公爵は顔を見合わせ、温かな笑みを交わした。




