16. 溢れ出す独占欲
あの東屋での出来事から数日。フィーネの胸は、未だに思い返すたびに甘い熱と深い戸惑いに包まれていた。
(私……なんだか、とても偉そうなことを言ってしまったのではないかしら……)
自室の鏡の前で、フィーネは小さく身を縮めた。先日の訪問の際、『自分は誰にも共感できない。人間らしい感情の欠けた、冷たい人形なのではないか』という内心の葛藤を、切なく自嘲するように打ち明けてくれたアヴィ。その言葉を思い出すたび、フィーネの胸は小さく痛んだ。
兄を失った後、分かったような顔で自分たちの悲しみを推し量り、一方的な憐れみを向けてきた周囲の貴族たち。他人の心など本人以外に分かるはずもないとフィーネは知っていたからこそ、自分自身を冷酷な人形だと思い詰めるアヴィを、放っておくことなどできなかったのだ。
不器用ながらも真摯に自身の葛藤と向き合っていた彼は、誰よりも誠実で温かく、傷ついたフィーネの心に寄り添ってくれた大切な人なのだから。
(だとしても……あんな風に、分かったようなことを言ってしまっただなんて。いくら何でも、殿下に対して出過ぎた真似だったのでは……)
後から一人で思い返せば思い返すほど、恐縮と不安が込み上げてくる。
――けれど。あの直後にアヴィが見せてくれた表情と、紡いでくれた言葉を思い出すと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
『君はいつも……私が一番欲しい言葉を、私自身すら気づいていなかった光を、与えてくれるんだね』
王子としての完璧な仮面ではない、心からの笑顔。あの眩しいほどの笑顔と温かな感謝の言葉を思えば――きっと、あの時の自分の言葉でよかったのだと、フィーネは自分に言い聞かせるのだった。
(それにしても……)
あの時明かされたもう一つの事実を、フィーネは未だうまく受け止めきれずにいた。
一年前、お忍びで下りた街で、アンナやギルたちを助けようと飛び出したあの日の自分を、実はアヴィが見ていたということ。そして――そんな自分に「ずっと憧れていた」と言われたこと。
アヴィが嘘や冗談でそんなことを言う人間ではないと、誰よりも知っている。知っているからこそ、その言葉は思いがけない衝撃となってフィーネの心を揺さぶっていた。
(……あんなにも完璧で誠実な殿下に、そこまで思われるほどの価値が、私にあるのかしら……)
優秀な兄を死なせてしまった自責の念。「魔法も使えない足手まといの自分」という根深い自己評価の低さは、少女の胸の奥で、未だ冷たい影を落としているのだった。
◇◇◇
そんな折、隣国リトルディア公国から大公夫妻と幼い公女を迎える歓迎夜会が、王城で開催されることとなった。
公女をもてなすため、今回の夜会は特例として同世代の貴族子女たちも招かれており、フィーネもまた、両親とともに登城していた。
『本当なら君をエスコートしたいのだけれど、第一王子の責務として主賓をもてなさなければならない。一人にして申し訳ない』
事前にアヴィから届いていた、いかにも彼らしい生真面目な詫びの手紙。本当ならエスコートしたかったという優しい彼の言葉を胸に、フィーネは大広間へと足を踏み入れた。
(殿下……お疲れではないかしら……)
大広間の壇上には王家と大公家が並び、華やかな挨拶が交わされていた。
主賓の一人であるサラ公女は、柔らかそうなピンクブロンドの髪と紅色の瞳を持つ愛らしい少女だった。大公夫妻とはあまり似ていない印象の彼女は、隣に佇むアヴィに見惚れたような視線を送っている。
眩しい二人の姿にフィーネの胸がキュッと小さく痛んだ。
けれど、それ以上にフィーネの目を惹いたのはアヴィの微かな変化だった。
表面上は完璧な王子の笑みを浮かべているものの、その瞳の奥には隠しきれない疲労が滲んでいる。周囲の誰も気づかないその陰りに、フィーネは心配そうに眉を下げた。
やがて高らかに音楽が鳴り響き、宴の幕開けを告げるファーストダンスが始まった。
国王は大公妃の手を、大公は王妃の手を静かに取り、フロア中央へと進み出る。互いの国への最大限の敬意と友情を示す、見事な社交の舞踏。そして――第一王子アヴィもまた、王室の責務としてサラ公女の手を取り、優雅にステップを踏み出していた。
「まあ……なんて華やかで美しいのでしょう」
「王族ならではの気品があふれる、実に優雅な身のこなしですわね」
会場を埋め尽くす貴族たちから、感嘆の吐息と称賛の眼差しが注がれる。とりわけ人々の視線を集めていたのは、フロア中央で可憐にステップを重ねる幼いアヴィとサラの姿だった。
ふわりとドレスの裾を揺らすピンクブロンドの公女。そして、彼女に優しく視線を合わせ、口元に穏やかな笑みを浮かべて言葉を交わすアヴィ。
遠目から見つめるフィーネの目には、二人がまるで親密そうに会話を楽しんでいるかのように映っていた。
「ご覧になって、あのお二人を」
「まあ……あんなにお若いのに、息もぴったりでお見事だわ」
「これほどの気品とお美しさ……まさに両国の未来を照らす光のようですわね」
会場を包む楽しげな歓声と、両国の友好を祝う華やかな空気。会場の隅で静かに佇むフィーネもまた、フロアの中央で完璧なステップを刻むアヴィの姿を、吸い寄せられるように見つめていた。
(……本当に、綺麗)
眩いばかりの金髪を揺らし、流れるような美しい所作で公女をエスコートする姿は、まさに誰もが憧れる雲の上の王子様そのものだ。
耳に飛び込んでくる「お似合い」という周囲の囁きに、胸がキュッと小さく疼く。自分などの手には届かない遠い世界の人なのだと、改めて突きつけられたような寂しさが一瞬胸を掠めた。
――けれど。
(ううん……違うわ)
フィーネはそっと胸元に手を当て、ドレスの上から指先をぎゅっと握りしめた。
あの東屋で、自分だけに見せてくれた心からの笑顔。そして、優しく重ねてくれた手の温もり。どれほど周囲から「完璧な王子」として讃えられていようと、あの温かな絆が嘘ではないことをフィーネは知っている。
そう思うだけで切なさはふっと和らぎ、胸の奥はじんわりと甘い温かさに満たされていくのだった。
やがてファーストダンスが終わり、他の貴族たちも続々とフロアの輪へ加わり始めた頃。会場の隅で佇むフィーネのもとへ、ひとつの影が近づいてきた。
「――やあ、フィーネ嬢。こんなところでお一人ですか?」
「これは……ルベール様」
見覚えのあるワインレッドの髪をした少年に、フィーネは少しだけ緊張を緩めた。サイモン公爵家の次男で、同い年のルベールだ。
家同士の交流で顔を合わせることも多く、気心の知れた顔馴染みの一人だった。
「お久しぶりですね」
気さくに微笑むルベールに、フィーネも軽く淑女の礼を返す。
「お久しぶりです。何か私に御用でしょうか?」
「よかったら、一曲お相手願えませんか?」
「……私と、ですか?」
アヴィとフィーネの関係は、あらかじめ「非公表の婚約者候補」とされている。婚約に至らなかった場合を配慮した両家の意向であったが、そのため周囲から見れば、フィーネは誰ともまだ婚約していないフリーの公爵令嬢だ。
正当な理由もなく他家の令息からの誘いを断るのは、貴族のマナーとして著しく不作法にあたる。
フィーネは困惑して視線を泳がせたが、アヴィはまだフロアの中央で、公女との二曲目のダンスを踊っている最中だった。
(……お断りする理由が、ないわよね)
内心で小さくため息を吐きつつも、フィーネは表向きの柔らかな笑みを浮かべ、差し出されたルベールの手に自分の手を重ねた。
「……はい。私でよろしければ、喜んで」
◇◇◇
一方のアヴィは、目の前で微笑む薄桃色の髪の公女を、ただ王族としての完璧な礼節でもって対応していた。踊っている最中、彼女から向けられる隠しきれない好意と熱視線には当然気づいていたが、応える気などは微塵もない。
彼の心にあったのは、一刻も早くフィーネのもとへ向かいたいという切実な焦燥だけだった。
両親から言い渡されていた二曲の義務を果たし終えると、なおも名残惜しそうにもう一曲をねだる公女を、隙のない微笑みと完璧な作法で巧みにかわす。
そして人混みの中へと静かに身を引くと、アヴィは広い会場の中で愛しい少女の姿を探し始めた。
社交の義務は果たした。だが、まだ一曲たりとも、本当に踊りたい相手と手を重ねられていない。
(……フィーネ嬢は、どこに……?)
周囲に悟られぬよう、ただ挨拶をして回っているかのような優雅な足取りで捜索を続けていた、その時だった。不意にフロアの中央付近から、小さな歓声とざわめきが上がった。
その声につられるように視線を向けたアヴィの瞳に、人垣の隙間から優美に揺れる白金の髪が飛び込んできた。
「……フィーネ嬢?」
アヴィは小さく呟くとそちらへ足を向ける。立ち集まる人垣の隙間から見遣った瞬間、息が止まった。
(……フィーネ嬢と……あれは確か、サイモン公爵家のルベール……?)
ドクンと心臓が脈打ち、頭の芯がカッと熱くなった。ルベールの手に添えられた、フィーネの細く華奢な指先。自分以外の男とステップを合わせ、身を寄せ合っている光景。
周囲の貴族たちは「なんて可愛らしく、お似合いのお二人なのかしら」と微笑ましそうに二人を見つめている。
(っ……! お似合いなんかじゃない……っ!)
反射的に否定したくなる衝動を、第一王子としての理性で危うく押し留める。この場に不相応な言動をするわけにはいかない。――だが。
(……まだ、私とだって踊っていないのに……っ!)
自分が他の女性と踊っていたせいだと分かっている。立場上、避けられなかったことも。
フィーネが自ら男を誘うはずもなく、この場で声をかけられれば、明確な拒絶の理由がない限り断れないことくらい百も承知だ。
自分がずっと側にいれば――パートナーとして隣に立ててさえいれば、守ってやれたのに。
アヴィは悔しそうに唇を噛みしめた。
先日、自分の中に『血の通った人間らしい感情』があることを、彼女のおかげで自覚したばかりだった。だが――目の前で他の男に柔らかく微笑む彼女を見た瞬間、胸を焦がす猛烈な嫉妬と苛立ちに、思考が塗りつぶされそうになる。
(……フィーネに、触れるな……っ!)
胸の奥から湧き上がる激しい独占欲に戸惑いながらも、アヴィは彼女の手に触れる男の手を、悔しさと嫉妬に満ちた瞳で見つめ続けるのだった。




