15. 欠陥の向こう側
あの茶会からしばらく経ち、王城の奥深く、四季折々の花々が咲き誇る静寂に満ちた庭園の東屋。
木漏れ日がテーブルの上に柔らかな光の斑の影を描く中、アヴィとフィーネは二人きりの穏やかなお茶の時間を過ごしていた。
ひとしきり最近の出来事などについて穏やかに語り合い、ふと会話が途切れたところで、アヴィはやや改まった態度で話を切り出した。
「……フィーネ嬢。ひとつ訊いても……いや、確認してもいいかな?」
「……? はい、何でしょうか」
不思議そうに首を傾げるフィーネ。その無垢な紫水晶の瞳を見つめ返しながら、アヴィは先日の確信を確かめるように言葉を繋いだ。
「今から一年ほど前……七歳になったばかりの頃。君は……お忍びで公爵領の街へ下りていたことがあったのではないかな?」
「え……と? そうですね、何度か……」
唐突な過去の話。だが、思い当たることがあったのだろうフィーネは戸惑いながらも頷いた。
「やっぱりそうなんだね。私自身、全然気づいていなかったのだけど、この前の茶会で君がダレイアス嬢を庇ったのを見た時……過去のある光景が重なったんだ」
「ある光景……?」
キョトンとした様子のフィーネに、アヴィは当時の情景を思い出すように語りかける。
「あの時……柄の悪い大人の男たちに取り囲まれた幼い子供たちを庇い、刃物を向けられながらも、真っ直ぐな瞳を向けて立ち塞がった少女がいたんだ……」
包み込むように穏やかな声音で、それでいて一言一言を確かめるように紡いでいく。語られた出来事に、フィーネの顔色がみるみる変わっていった。
「……あの少女は、君だったのだろう? フィーネ嬢」
「なぜ……なぜ殿下が、そのことを……?」
アヴィを見つめたまま、フィーネは信じられないとばかりに首を振った。
「……あの日、偶然にもあの場所に視察で訪れていてね。遠目から君の姿を見かけたんだ。帽子のせいで顔も髪色もはっきりとは見えなかったけれど……恐怖に足を震わせながらも、誰かを守るために決して引こうとしなかった、意志の強い紫の瞳だけは、ずっと心に残っていた」
アヴィは懐かしむように目を細め、それから静かに自分の胸元に手を当てた。フィーネは呆然と彼の言葉を聞きながら、ハッと何かに気付いたように息を呑んだ。
「……っ、では、あの時お助けくださった方が仰っていた『我が主』というのは……」
アヴィがそんなフィーネの言葉を肯定するように静かに頷いてみせると、真実を知ったフィーネはぽかんと口を開けた。
それから何かを悟ったように目を見開き――次の瞬間、一気に顔を真っ赤にして両手で顔を覆ってしまった。
「……あ、あの時も殿下に助けていただいていたなんて……っ。い、いえ、それ以上に私……っ、殿下にあんな見苦しい姿を見られていたなんて……お恥ずかしいです……っ!」
赤くなった顔を両手で覆い、消え入りそうな声で身を縮めるフィーネ。アヴィはそんな彼女の瞳を覗き込むように、優しく、けれどきっぱりと言い切った。
「恥ずかしいことなどないよ。私はあの時、君の凛とした姿に――その眼差しに、それまで感じたことがないほどの強い『憧れ』を抱いたのだから」
「……『憧れ』、ですか?」
思いもよらない言葉に、フィーネは手の隙間からパチクリと瞳を覗かせた。
誰もが崇める完璧な第一王子が、自分のような者に『憧れた』と言うのだ。不思議そうに首を傾げるフィーネに、アヴィはどこか自嘲めいた微かな笑みを浮かべ、静かに目を伏せた。
(――そうだ。憧れだったのだ)
かつてウィリアムにしか吐露したことのない、胸の奥で渦巻く葛藤。幼い頃からずっと胸の奥に刺さり続けていた、抜けない冷たい棘。
何をやってもそつなくこなせてしまう。けれど、だからこそ何に対しても激しい執着や情熱を抱けない。誰かの悲しみや喜びに寄り添っているような微笑みを浮かべながら、どこか頭では冷めきっている自分。
妹のレイアのように素直に感情を爆発させることも、弟のカイルのように素直でなくとも自然に内側から溢れるような情愛を誰かに注ぐこともできず、自分はただ「王子らしく」「兄らしく」計算された仮面を被り、微笑んでいるだけ。
身近な人々が血の通った温かさに満ちていればいるほど、自分だけが感情のない冷たい人形のように思えてならなかった。
そんな自分への深い絶望と、完璧な第一王子を演じ続ける罪悪感。
だからこそ――あの日、誰かのために恐怖に足を震わせながら立ち塞がった『あの少女』の無私の熱と気高さは、冷え切ったアヴィの胸に逃げ場のない光として突き刺さったのだ。
「……殿下?」
正面から鈴の鳴るような愛らしい声が届いた。
ハッとして顔を上げると、白金の髪を風に揺らしたフィーネが、心配そうに覗き込んでいた。
その紫の瞳に、なぜかほっと安堵するような心地がした。
(――不思議な人だ)
か弱いのか、強いのか……手紙のやり取りをしてお互いに気心が知れてきても、彼女の本質は未だに測りきれない。
守ってあげたくなるほど可憐で儚げに見えるのに、誰かを守るためなら大人相手にだって決して引かない強さを見せる。
自分を「完璧な第一王子」としか見ない周囲の中で、この少女だけが、己の胸の底にある空虚さを照らす「唯一の光」だった。
先日の茶会で彼女の正体を確信した時、胸の底から燃え上がった「絶対に手放したくない」という狂おしいほどの衝動。
――けれど、彼女を強く望めば望むほど、己の根底にある「冷たさ」が恐ろしくなった。こんな計算でしか動けない自分が、この温かな光を望んでいいのだろうか、と。
それでも彼女なら――本当の自分を見せても、受け止めてくれるのではないか。
そんな思いが胸を突き動かし、アヴィはもう、完璧な王子としての仮面で自分を偽り続けることに耐えられなくなっていた。
「……すまない、少しぼんやりしていたよ」
アヴィは手元のカップを見つめ、我慢できずに胸の底から零れた本音を、ぽつりと漏らした。
「フィーネ嬢。私はね……自分が、嫌になることがあるんだ」
「え……?」
「誰に対しても、本当の意味で感情を傾けることができない。どんな時も冷めた目で自分や周囲を観察してしまう……。人が何に傷つき、何に喜ぶのかを頭のロジックで理解しようとはしても、心で共感できていないんじゃないかと、恐ろしくなるんだ」
自分の情けない言葉が、幼い彼女を戸惑わせていることは分かっていた。けれど、一度溢れ出した弱音はもう止まらなかった。
「こんな……人らしい感情の欠けた、『欠陥品』のような私が……いずれ王として国を治めることなど、許されるのだろうか」
静まり返る東屋。
アヴィは自らの空虚な本質に耐えかねるように、そっと目を伏せた。
自分を偽る苦しさに耐えきれず、目の前の光にすべてを晒してしまった。きっと彼女も、完璧に見えていた王子の思いがけない情けない告白に、失望してしまっただろう――。
「この人なら」と期待してしまう身勝手な祈りと、彼女に拒絶されるかもしれないという恐怖に胸を締めつけられながら、アヴィは静かに彼女の言葉を待っていた。
「……それは、本当に欠陥なのでしょうか」
ぽつりと落とされた、風のように控えめな声。アヴィは息を呑み、伏せていた碧の瞳を上げた。
そこにあったのは、アヴィを拒絶するような冷ややかな視線などではなかった。
困ったように少しだけ眉を下げ、けれどどこまでも真っ直ぐで、純粋な色を湛えたフィーネの瞳だった。
「フィーネ嬢……?」
「……私などでは、殿下のお心のすべてを理解して差し上げることはできません。……ですが」
フィーネは小さな手で胸元をキュッと握り締め、一生懸命に言葉を探すように紡ぎ出した。
「もし殿下が、本当にお心のない冷たい人間なのだとしたら……そんな風に傷ついたお顔で、『自分は冷たいのではないか』なんて……苦しそうに悩んだりなさらないと思います」
「……っ」
「それに……相手の心なんて、誰にも分からなくて当たり前です。誰かの本当の気持ちなんて、本当は誰にも分かりません。周りの方が分かっているように見えるのだとしたら――それは、自分なりの考えに当てはめて『分かったつもり』になっているだけなのです」
痛みを分かち合うように胸を押さえ、フィーネは真っ直ぐにアヴィを見つめる。
「でも、殿下は違います。全ての人は自分とは違うと知っていらっしゃるからこそ……安易に分かったつもりにならず、頭の中で『どうすれば相手を傷つけずに済むか』を、一生懸命に考えてくださっているのでしょう?」
その全てを見透かすかのような美しい瞳に、アヴィは言葉を失った。
「一年前のあの日、街中で私たちを助けてくださった時も。先日の茶会で、私やダレイアス様を助けてくださった時も……。たとえそれがご自分の感情による突発的な行動ではなく、頭の中で冷静に計算した最適解なのだとしても……殿下は殿下自身で考え、誰かを助けたいと願ってくださったということです。私には……その『計算』が、誰の温かさよりもお優しくて、誠実なものに思えるのです」
フィーネは少し頬を染め、気恥ずかしそうに俯きながら、呟くように言った。
「分からないからこそ、分かり合おうと不器用なほど真剣に向き合ってくださる殿下が、私はとても尊くて……素晴らしいお姿に見えます。ですから、それが『欠陥』だなんて……私には、思えません」
拙くも真摯なその言葉に、アヴィの胸の奥で、長年彼を縛り続けていた冷たい殻に、ピシリと小さな亀裂が入った気がした。そこから溢れ出す温かな光に包まれるように――頑なに凍りついていた心が、ゆっくりと解けていく。
(欠陥では……ない……?)
「完璧な第一王子」「神に愛された天才」として崇め奉られるか、あるいは「王族の肩書」として利用しようとしてくる大人たちばかりの世界で。自分の努力も、苦悩も、不器用な誠実さも――この少女は、すべてをただの「アヴィという一人の人間」として見つめ、肯定してくれたのだ。
誰もが自分とは違うと知っているからこそ、分かろうと苦しむ。 その不器用な模索こそが、自分の長所なのだと――。
「……フィーネ嬢」
「は、はいっ……! 私、またおかしなことを言ってしまいましたでしょうか……っ」
慌てて手で口を塞ぎ、恐縮するフィーネ。 そんな愛くるしくも気高き少女の姿に、アヴィは堪えきれず、ふわりと破顔した。
いつも周囲に見せている完璧で計算された微笑みではない。幼い少年のように、胸の底から溢れ出た、心からの笑顔だった。
「いいや……。ありがとう」
アヴィはそっと手を伸ばすと、テーブルの上のフィーネの小さな手を、包み込むように優しく重ねた。
「君はいつも……私が一番欲しい言葉を、私自身すら気づいていなかった光を、与えてくれるんだね」
重ねた手から伝わってくる、フィーネの確かな温もりと小ささ。その温もりに触れた瞬間――アヴィは、ハッと唐突に自覚した。
(ああ……そうか。私にも、ちゃんとあったんだ)
自分は感情のない冷たい人形だと信じ込んでいた。けれど、あの街中で彼女を見かけた時から、手紙で素の自分を交わし合っていた時から――自分はもうずっと前から、この少女に対して確かに血の通った感情を抱いていたのだと。
計算でも、頭のロジックでもない。誰かを心から愛おしいと思い、守りたいと願う、本物の想いを。
――この少女を、生涯かけて守り抜きたい。
――彼女の隣を、自分以外の誰にも渡したくない。
「自分は心のない人形だ」と絶望していた少年に、初めて芽生えた激しい独占欲と、生涯の恋。
緑溢れる庭園の風が二人の間を優しく吹き抜け、アヴィの胸の中に宿った温かな熱は、もう二度と消えることはなかった。




