13. 温かな時間
アヴィと手紙を交わすようになってから、フィーネの日常には柔らかな光が差し込んだようだった。
机の上に置かれた、王家の黄金の封蝋が施された封筒。その流麗な筆跡を指先でそっと撫でながら、フィーネはぽつりと小さく吐息を零す。
(……それにしても、まさかこんなことになるなんて)
本日の便りを開く前に、彼女の意識は、すべての始まりとなったあの『王家の訪問の日』へと遡っていた。
◇◇◇
王家の馬車が見えなくなった後、応接間に戻った両親は、恐る恐るフィーネに問いかけた。
「フィーネ……殿下とは、テラスでどのようなお話をしていたのだ? 無茶なことを言われたりしなかったか?」
心配そうに覗き込んでくる父ジェラルドと母リリアナに、フィーネは驚いたように瞳を瞬かせた。
「いえ……そのようなことは。それどころか、殿下はどこまでも私を気遣ってくださいましたわ。ただ……私が『公爵家の跡取りとして婿を取らないといけないから婚約者にはなれない』とお断りいたしましたら……」
「お断りしたのか!?」
「ええと……はい。ですが殿下は……『それなら将来、自分たちに子供ができたら次男に公爵家を継がせればいい』と仰って……」
「な、何だと……!?」
ジェラルドは驚愕のあまりモノクルを落としそうになり、リリアナも絶句して口元を押さえた。
八歳の幼い第一王子が、その場でそこまでの腹を括り、自らの意志で代案を提示してきたという事実。
「……だから、『すぐに答えを出すのは待ってほしい。まずは自分という人間を知ってくれないか』と……」
そう言ってフィーネは、困惑顔で首を傾げた。
「……殿下は何と申しますか……不思議なお方ですね」
驚きに打たれていたジェラルドもまた、深いため息を吐き、どこか晴れやかな笑みを浮かべたのだった。
「……やれやれ。とんでもないお方のお眼鏡に適ってしまったものだな」
◇◇◇
あれ以来、両親はこの件は当人たちに任せると言い、家のことは考えなくていいから、自分の気持ちを大事にしなさいとフィーネに告げた。
だが、彼女のそれまでの葛藤が急に消えるはずもなく、前向きに向き合おうとはしていても、時々過去の幻影が顔を出すこともあった。
(役に立つからではなく……『話していて楽しかったから』『もっと一緒にいたいから』。そんな理由で、王子殿下の婚約者に選ばれていいの……?)
自分には歴代の王妃が持っていたような強い魔法の素養もなく、華やかな美しさもない。それどころか大切な公爵家の跡取りを失わせてしまった、罪深い存在である。
誰かの役に立つことでしか、自分の存在理由を肯定できなかったフィーネにとって、アヴィのくれた言葉は嬉しくも、理解しがたいものだった。
それに加えてアヴィの完璧な王子としての気品、気遣い、優しさは、フィーネにとって恐れ多く、手を伸ばすことを躊躇してしまう。
(……私があの方の隣になんて、あまりにも身の程知らずなのではないかしら)
アヴィからの優しさと気遣いに溢れた手紙を読むたび、傾きそうになる自分と、過去の自分を責める声がフィーネの心の中でせめぎ合う。
それでもこの温かな日々を手放せず、フィーネはアヴィからの手紙を、お気に入りの木製チェストの引き出しにそっと大切にしまうのだった。
そんなある日の午前、フィーネは専属侍女のジーラを伴い、久しぶりに孤児院を訪れていた。
「アンナ、ギル、お邪魔しますね」
「フィーネ様! お久しぶりです!」
「……おう」
パァッと表情を綻ばせるアンナと、照れたように視線を逸らしながらも嬉しそうなギル。そんな二人のいつもの様子に、フィーネもまた心がふっと和らぐのを感じた。
「しばらくお見えにならなかったですが、お忙しかったのですか?」
「……ええ、まあ」
首を傾げるアンナに、フィーネは曖昧に笑う。さすがに王子から婚約の打診が来て慌ただしかったとこの場で言えるわけもなかった。
「皆さんはお元気でしたか? 今日は新しい絵本を持ってきたのです」
「はい、フィーネ様の読み聞かせは、小さい子たちが大好きなのできっと喜びますね!」
そう言ってアンナが子供部屋に声をかけに行くと、すぐに子供たちが駆け込んできた。
「フィーネお姉ちゃん! ご本読んでくれるの!?」
「僕、フィーネさまの隣!」
喜び勇んだ子供たちに手を引かれ、フィーネは庭の木陰で彼らに囲まれながら、本の読み聞かせを始めた。
絵本を読み終えた時、子供たちが「お礼だよ!」と不器用に編んだ野花の花冠を頭に載せてくれ、フィーネは思わず胸をじんと熱くさせた。
魔法の才能がなくても、誰かを笑顔にすることはできる。自分を温かく受け入れてくれるこの場所と子供たちの笑顔は、やはりフィーネにとってかけがえのない大切なものだった。
そして嬉しい知らせがもう一つ。
「フィーネ様、実は私……王都の商家で住み込みで働けることになったんです」
孤児院の手伝いの合間、アンナが嬉しそうに笑って教えてくれた。二つ年上の彼女はそろそろ仕事を見つけないといけないのだ、と以前聞いていた。
「あちらの都合で働き始めるのは半年先なのですが……フィーネ様に読み書きや計算を教えていただいたおかげで、とてもよいお給料で雇っていただけることになって。本当に、ありがとうございます」
「お、おめでとうございます、アンナ! 本当に、よかったです」
深々と頭を下げるアンナの手を握り返しながら、フィーネもまた笑顔になっていた。
兄を失ってから、ずっと灰色に留まっていたはずの世界。 けれど周囲は少しずつ変わり始めていた。その変化に自分が少しでも良い影響を与えることができたという事実が、フィーネの心に誇らしく優しい光を灯していた。
その夜、自分の部屋で机に向かったフィーネは、アヴィから届いた手紙の隣に新しい便箋を広げた。
『殿下へ
本日は久しぶりに、大好きな孤児院の子どもたちに会いに行きました。
みんなに絵本の読み聞かせをしたところ、目を輝かせて夢中で聞いてくれて、お礼にと野花で作った小さな花冠を頭に載せてくれたのです。それがとっても嬉しくて、温かい気持ちになりました。
また、以前読み書きや計算を教えてあげた友人が、おかげで働き先が決まったと教えてくれました。私の教えたことが誰かの役に立てたのだと知って、胸がいっぱいになりました。
殿下の周りには、どんな大切な方々がいらっしゃいますか?』
拙くも真っ直ぐな言葉をしたため、フィーネはそっと封を施したのだった。
◇◇◇
一方、王城の執務室。
第一王子としての過密スケジュール――家庭教師による講義や、ダンスやマナーのレッスン、剣や魔法の鍛錬などを終えたアヴィは、ソファに座って一通の羊皮紙を愛おしそうに見つめていた。
そこへ、側近であり幼馴染でもあるウィリアムが、お茶のトレーを手に近づいてくる。
「殿下。またグランドール嬢からの便りですか。ずいぶんと口元がゆるんでおられますよ」
「……ゆるんでなどいない。からかわないでくれ、ウィリアム」
実際そこまでアヴィの表情に違いはないし、半分はウィリアムの願望でもある。だが、素っ気なく返すアヴィの耳たぶが、かすかに赤くなっているのをウィリアムは見逃さなかった。
ウィリアムはくすりと笑いながら、湯気の立つ紅茶をデスクに置く。
「結構なことではありませんか。『神童』とまで囁かれる殿下が、一通の手紙でそれほど人間らしいお顔をなさるのですから。……グランドール嬢は、本当に凄い方ですね」
「……ああ」
ウィリアムの言葉を、アヴィは否定しなかった。
王城という重苦しい世界で、完璧であることを求められ続けてきたアヴィにとって、ウィリアムのような気の置けない友人の存在、そしてフィーネから届く素朴で温かな便りは、冷えた心を溶かす何よりの救いだった。
手紙に書かれた、フィーネと孤児院の子供たちとの心温まる光景。
アヴィはその情景を思い浮かべ、深く胸を打たれるとともに、すぐさまペンを執った。
『フィーネ嬢へ
君の優しさが、その子供たちの救いになっていることが手紙からよく伝わってきたよ。
私の周りの人か……やはり一番はウィリアム・ドルマンだろうか。一年ほど前から侍従見習いとして私に付いてくれているんだ。真面目で融通のきかないところもあるし、最近は随分からかわれることも増えたけれど……気持ちの優しい気の置けない大切な友人だと思っているよ。
今度、君のその孤児院での話を、もっと近くで聞かせてもらえないだろうか』
◇◇◇
それから数日後。アヴィからの手紙に添えられていた招待を受け、フィーネは王城の庭園にある静かな東屋を訪れていた。
手紙の往復によって互いの「日常」や「周りの人々」を知った二人の間には、かつてのような強張りや緊張感はすっかりなくなっていた。
「お招きありがとうございます、殿下」
「来てくれてありがとう、フィーネ嬢。……今日の装いも素敵だね」
テーブルを挟んで向かい合った二人は、自然と微笑みを交わし合う。
お茶が注がれると、フィーネは少し照れくさそうに口を開いた。
「手紙にお書きになっていた……ドルマン様とおっしゃる側近の方は、本日はいらっしゃらないのですか?」
「ああ、彼は気を利かせて外してくれたよ。『殿下の邪魔はいたしません』と言ってね……全く、余計なお世話なのだが」
アヴィが困ったように眉を下げると、フィーネは「ふふっ」と可憐に声を上げて笑った。
「本当に、殿下を大切に思っていらっしゃるのですね。手紙でお聞きした通りの、お優しい方ですわ」
「君の周りにいる孤児院の子供たちも、君のことが大好きなのだろうね。手紙を読みながら、君がどれほど温かな時間を届けているのかが伝わってきて、私も優しい気持ちになれたんだ」
「……そうだったら、私も嬉しいです」
照れたように頬を染めるフィーネに、アヴィは優しく目を細めた。
手紙を通して互いの世界を知り、大切な存在を分かち合った二人。
目の前に座る相手は、もはや「第一王子」や「公爵令嬢」という無機質なラベル上の存在ではなく、温もりを伴った特別な存在だった。
「フィーネ嬢。これからも……君の見る世界を、私に教えてくれるかい?」
「はい、勿論です!」
風に揺れる花々の下、二人の和やかな笑い声がどこまでも優しく響き渡っていた。




