12. はじまりの手紙
グランドール公爵邸への急な訪問を終え、王城へと引き返す王家の馬車の中。
規則正しい馬車の揺れと蹄の音が響く静寂の中、向かいに座る父王が、どこか満足げな笑みを浮かべて口を開いた。
「フッ……突然の訪問だったが、実にあやつ——ジェラルドの驚いた顔と言ったらなかったな。……それで、アヴィ。フィーネ嬢との会話はどうだったのだ?」
傍らで優しく微笑む母の王妃も、慈愛に満ちた眼差しでアヴィを見つめている。
車窓から外の風景をぼんやりと眺めていたアヴィは、ゆっくりと両親へ視線を戻した。第一王子としての気品を纏いつつも、その瞳には八歳の少年に相応しい、少しばかりの照れと真剣な光が宿っていた。
「……あのような急な訪問でしたので、彼女は自分が何か茶会で粗相をしてしまったのではないかと、ひどく怯えていました。一昨日の茶会が私の婚約者選びの場であったことすら、知らされていなかったようです」
そう言ってアヴィは、訪問の最初――玄関ホールで一瞬目が合った、公爵の厳しい瞳を思い出す。
王家なんて面倒な場所に彼女を嫁がせる気など、最初からなかったのだろう。その様子からは、家の権力や名声などより、家族への愛情の方が強いのであろうことが容易に察せられた。
「まあ、可哀想に。公爵も余計な負担をかけまいと伏せていたのでしょうけれど、驚かせてしまいましたわね」
王妃が胸に手を当てて小さく息を吐くと、アヴィは静かに言葉を続けた。
「ですが……彼女は自分のこと、そしてグランドール家の未来のことを、とても真摯に考えていました。今や自分しか跡取りがいない公爵家を断絶させるわけにはいかないからと……私の婚約の申し出を、最初は毅然とした態度で辞退されたのです」
グランドール家の悲劇はアヴィも知っていた。跡取りであった長男が暴漢に襲われて命を落としたということも……それがフィーネの目の前でのことだったということも。
彼女が語った言葉の端々からは、その身に背負う責任と重圧がありありと感じられた。
「なに……? 王子の申し出を蹴ったというのか?」
父が意外そうに眉を跳ね上げる。アヴィは少し言葉を区切り、耳たぶをかすかに朱く染めながら、しっかりと父の目を見つめ返した。
「ええ。ですが……私は諦めたくありませんでした。ですから、将来私たちに子供ができたなら、次男にグランドール家を継がせればいい、とお話ししたのです」
「……次男継承案を、お前自らその場で提示したというのか!?」
何を勝手なことを、と怒られるかとも思われたが、父は一瞬目を見開いた後、豪快に笑い出した。
「ハハハ! まさか八歳のお前がそこまで腹を括って交渉してくるとはな! それならばジェラルドも断る口実を失うだろうが……そこまでして、あの娘が良かったのか?」
「物分かりのいいアヴィが、辞退されても引き下がらずにそんな代案を提示するなんて……!」
両親の生温かい眼差しに、アヴィは困ったように眉を下げた。
「大袈裟です、父上、母上。……ただ、彼女と話している時間がとても心地よくて、もっと彼女の生きる世界を、彼女の日常を知りたい……そう思ったのです」
「うむ。ならば焦る必要はない。形式や立場から入るのではなく、まずは手紙でも交わして、じっくりと互いの心を通わせなさい」
「はい。城に帰ったら……すぐに最初の手紙を書こうと思います」
アヴィは小さく頷き、胸の奥に芽生えた温かな熱を確かめるように、そっと手を握りしめたのだった。
◇◇◇
王城へ到着後、自室に戻ったアヴィは、上質な羊皮紙とインクを取り出し、執務机に向かった。
そこへ、温かな紅茶の湯気を立てる銀トレーを手にした側近のウィリアムが入ってくる。
「お茶をお持ちいたしました、殿下。……ですが、帰城されて真っ先に机に向かわれるとは、随分と張り切っておられますね」
「……冷やかさないでくれ、ウィリアム。彼女に『まずは私を知ってほしい』と言ったのだから、言葉通り手紙を書いているだけだ」
コホンと咳払いをし、澄ました顔でペンを持つアヴィ。だが、既に一年以上彼に仕えてきたウィリアムの目を誤魔化せるはずもなかった。
「さようですか。てっきり、公爵邸での余韻に浸っておられるのかと」
「〜〜〜っ、意地が悪いぞ、ウィリアム」
図星を突かれ、耳を赤くするアヴィを見て、ウィリアムは恭しく一礼しながらも、嬉しそうに口元を緩めた。いつも完璧な王子として振る舞う主が、こんなにも年相応にソワソワとしている姿を見るのは、側近としても友としても喜ばしく、微笑ましかった。
アヴィは深く呼吸を整えると、庭園での静かな時間を思い浮かべながら、一文字一文字丁寧にペンを走らせ始めた。
『フィーネ嬢へ
急な訪問だったにもかかわらず、温かく迎えてくれてありがとう。
君に伝えた通り、まずは私という人間を君に知ってもらいたくて、こうして筆を執った。形式ばった挨拶は抜きにして、お礼から言わせてもらうよ。
今日は、君の屋敷の庭園を一緒に歩くことができて、本当に楽しかった。
君がひとつひとつの花や木々を慈しむように教えてくれた時間がとても心地よくて……王城へ戻ってからも、ずっとあの庭園の風景を思い出していたんだ。
これから少しずつ、君の好きな場所や、普段どんな風に過ごしているのかを教えてもらえたら嬉しい。
私の方からも、王城での出来事や面白い話をたくさん届けるよ。
アヴィより』
書き終えた手紙を愛おしそうに眺め、手早く王家の黄金の封蝋を施すと、アヴィはそれをウィリアムへと差し出した。
「これを、明日の朝一番にフィーネ嬢へ届けてくれ」
「承知いたしました。……これから手紙の配達で忙しくなりそうですね」
ウィリアムは楽しそうに肩をすくめ、恭しく手紙を受け取って部屋を後にした。
◇◇◇
翌日の午前。グランドール公爵邸のフィーネの部屋に、専属侍女のジーラがどこか嬉しそうに入ってきた。
「お嬢様。王城より、第一王子殿下からのお手紙が届きましたわ」
ジーラが恭しく差し出した銀のトレーの上には、見紛うはずもない王家の黄金の封蝋が施された、気品ある封筒が載せられていた。
「殿下から……私に……?」
手紙を目にした瞬間、フィーネの頬が小さな朱に染まった。
昨日の午後、公爵邸の庭園を二人で歩いた時の記憶が、色鮮やかに脳裏に蘇る。
『今すぐに答えを出すのは待ってほしい。……まずは私のことを、知ってくれないかい?』
自分を選んでくれた温かな言葉と、重ねられた手から伝わってきたぬくもり。
けれど、まさか訪問の翌日に、もう最初の便りが届くなんて思いもしなかったのだ。
「お嬢様、うふふ……どのようなことが書かれているのでしょうね?」
ニコニコと生温かい視線を向けてくるジーラに、フィーネは「も、もう、ジーラったら……!」と照れくさそうに返しながら、小さなペーパーナイフを手にした。
そっと封を切り、上質な羊皮紙を開くと、そこにはアヴィの几帳面で流麗な筆跡が躍っていた。
手紙を読み進めるうちに、フィーネのアメジストの瞳がふんわりと丸くなった。
そこに書かれていたのは、第一王子としての威厳を誇示する大層な言葉でも、強引なアプローチでもなかった。
ただただ、昨日の散歩の時間を大切に思ってくれたらしい感謝の言葉と、「君の日常を知りたい」という、どこまでも飾らない温かな問いかけだけだったのだ。
(殿下は本当に……真っ直ぐで、温かなお方ね)
手紙を胸元にぎゅっと抱きしめると、胸の奥がぽかぽかと温かな灯火で満たされていく。
昨日までの緊張や戸惑いが綺麗に解けていき、フィーネの唇からふっと可憐な笑みが溢れ出した。
「ジーラ、便箋とインクを用意してくれる? お返事を書きたいの」
「はい! すぐにご用意いたしますわ、お嬢様!」
パッと顔を輝かせたジーラが、嬉しそうに執務机の方へ走っていく。
その後を追って机に向かったフィーネは、アヴィの手紙を愛おしそうになぞりながら、そっとペンを手に取った。
昨日は緊張してうまく話せなかった庭園の散歩道のこと、四季折々の花のこと——昨日の散歩の続きをするように、拙くも素直な言葉をしたためていく彼女の心は、どこまでも軽やかだった。
こうして、三日と空けずに届くことになるアヴィからの便りは、孤立していたフィーネの日常を優しく彩る「特別な楽しみ」となっていくのだった。




