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1-4:蝉の声


· · • • • ✤ • • • · ·



 店の外では、蝉が途切れなく鳴いていた。

 

 テレビの音と蝉の声が、花屋の奥でバケツを抱える渚の耳に重なって届く。

 

『――世界各地で確認されている黒い霧について、国連は現在も協議を続けており……発生地域の住民には、引き続き冷静な対応を――』

 

「なぎちゃーん。これ、そっち持って行ってくれるかしらぁ」

「はぁーい」

 

 渚はずしりと重いバケツを持ち上げ、店の奥からの声に返事をした。腰を軽く叩いて固まった身体を伸ばした時、テレビから流れた言葉が遅れて耳に引っかかった。

 

 黒い霧。

 

 その響きに、ふと、黒い本のことが脳裏をよぎる。

 

 あの本にも、黒い霧という現象が出てきた。けれどあれはファンタジー小説だ。そう思い直し、渚はバケツを抱え直した。

 

 ニュースを追う習慣のない渚でも、その言葉だけは何度か耳にしている。『黒い霧』は、世界各国で現れては消える、正体不明の怪奇現象だった。

 

 初めて確認されてから二週間。害はないと発表されているが、不明な点は多い。発生地域では不安が広がり、今ではすっかりニュースの常連になっている。

 

 もっとも、日本で発生したという話はまだない。


 だが、渚にとっては世界のニュースより、バイト代の方が大事だった。

 

「ごめんねぇ、重たいものばかり持たせちゃって」

「柳瀬さん。これくらい大丈夫ですよ」

 

 パタ、パタ、とゆったりとしたスリッパの音が近づいてくる。「ありがとうねぇ」と朗らかな声が続いた。

 

「こっちの花は?」

「それは右側の方がいいかしら」

「はぁい」

『次のニュースです。天鳴財閥による裏金の問題が表面化しています――』

 

 渚はテレビから意識を逸らした。

 

 バケツの中で大輪の向日葵が揺れ、夏らしい匂いがふっと鼻を掠める。店先の風鈴は、暑さにうなだれたまま動かない。

 

「ひゃっ!」

「ふふ」

 

 ぴと、と頬に冷たさが触れ、渚は小さく飛び退いた。柳瀬がにこにこしながら、麦茶の入ったグラスを差し出している。

 

「麦茶だよ。暑いからねぇ」

「あ、ありがとうございます」

 

 二人は店の中ほどにある椅子へ腰掛けた。


 この店にいると、時間の流れまでゆるくなる。花の匂いと、古い木の棚と、柳瀬ののんびりした声。渚はこの空間が好きだった。

 

 あの黒い本を受け取ってから、一週間が過ぎた。

 

 主人公は回帰を繰り返し、仲間は死に、救いはなかった。結末を何度見返しても変わらなかった。


 どれだけ心に残っても、本は本。渚が日常に戻ったつもりになるには、一週間で十分だった。

 

「この後はまた違うお仕事かい?」

「あー、はい。夜まで」

 

 夜中まで、とは言わず、渚は麦茶を口に運んだ。

 

「もっと稼がせてあげれたらいいのだけどねぇ。お金も……、なぎちゃん、ね、もうウチのお店は手伝わなくても」


 みんみん。じー。じじ。


 みーん。みーん。


 じじじ。


「……あっ、ラナンキュラス、元気なくなっちゃってます!」

「あら、切り方が悪かったかしら」

「少し水切りした方がいいでしょうか?」

「そうねえ」

 

 無理に話題を逸らしたことには、きっと気づかれている。けれど柳瀬はそれ以上踏み込まず、いつもの柔らかな笑顔のままでいてくれた。


 渚はその顔から目を逸らし、花桶に視線を落とす。ぼってりと重たい花弁が、茎の先で少し垂れていた。


 みーん、みーん。


 じじ、じじじ、ジジ。


 渚はふと手を止めた。


 蝉の声だと思っていた音が、いつの間にか少し違っている。高く、細く、乾いていて、虫の声というより、古い蛍光灯が焼き切れる前の音に似ていた。


「なんだか今日は、蝉がうるさいですね」

「セミかい?」


 ジジジジ……ジジ、ジジ。


 柳瀬が首を傾げる。

 渚は茎に添えた手を止めた。柳瀬は眉の端を落とし、心配そうに渚のことを見ていた。


 ジジジジジ。


「え、だってこんなに鳴いているじゃない、ですか……」

 

 暑く燃える店の外を見る。空を仰いだ渚は、驚いて声をあげた。

 

「えっ……? なに、あれ」


 ――黒い霧が、青い空を覆っていた。


 黒い霧は、巨大な眼の形をしていた。青空の真ん中で、まばたきもせず、地上を見下ろしていた。

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