1-3:結末
『■■■■■■』
そこにあったのは、文字を強い力で塗り潰した痕跡だった。薄汚れた紙の中央に、一行だけ何かが記されていたらしい。黒い線が斜めに何度も往復し、紙を傷めつけるように残っている。文字を隠したというより、その言葉ごと殺そうとしたように。
渚は頬を引きつらせ、ひとまず次のページを捲った。そこからは、渚のよく知る日本語が続いていた。
『――彼は、それが五回目だと気づいた。気づいた時、腕の中に重さを感じた。その重さを感じるのも、五回目だった。
一回目、彼はその人のことをあまり知らなかった。名前も、声も、どういう人なのかさえも、知らなかった。
だけど五回目になると、少しだけ分かった。後から調べたこともある。その女は彼の部下の、さらに部下として、昨日からチームに加わったばかりの新人だった。
運が悪かったと思う。来てすぐにこんな場所で死ぬなんて。
「おい! ボケっとしてないで早く来い!」
「うるさいな。わかってる」
隣で部下が怒鳴る。その部下は、彼が上司だということを五回目になっても忘れているみたいだ。いつも同じ顔で怒り、いつも同じ言い方で命令してくる』
「……なにこれ、物語?」
渚は眉を寄せたまま、次のページをめくった。
『2X07年。この星は壊れかけていた。
戦争があった。飢えがあった。大きな地震も、津波もあった。海は少しずつ街を呑み、森は何日も燃えた。
それでも人は、なんとか生きていた。
けれど、黒い霧だけは違う。
黒い霧の向こうには弧洞があった。弧洞の中には怪物がいた。怪物は意味もなく人を殺し、町を壊し、生き物を踏み潰した。
黒い霧が現れてから十五年が経っている。
もしこの世界を見守る存在がいるとしたら、彼らはすでに、この場所を見捨ててしまったのだろう』
「こ……、なにこれ。こどう? SFファンタジー? それにしてもなんか……」
文章はうまいとは言えない。
言葉はやけに平たく、場面の切り替わりも唐突で、視点も落ち着かない文が続く。
それなのに、渚の手は止まらなかった。
ページを繰るたび、斜に構えていた気持ちが少しずつ削られていった。文字の拙さも、説明の粗さも、気づけばどうでもよくなっていく。大事なのは、その先に何が起こるのかだった。
物語の舞台は、近未来の日本社会。
その十五年前、世界各地に『天災』と呼ばれる現象が発生し、地球は『弧洞』という謎の空間と繋がった。
弧洞の内部には怪物が潜んでいる。さらに奥には『終末装置』があり、それを破壊できなければ、怪物は外へ溢れ、最後には街ごと吹き飛んでしまうという。
しかしそこで、その危機に立ち向かう力を得た者たち——《界律者》が現れた。
主人公の名前は、七瀬玲梓。
高校生の時に《界律者》として覚醒し、のちに日本の五大天災対策組織のひとつ、《天鳴グループ》のマスターとなる男だった。あまりにも強く、あまりにも多くの怪物を倒したため、人々は彼を世界を救う英雄と呼んだ。
けれど七瀬玲梓は、まともな英雄ではなかった。
優しく、勇敢でもある。未来を諦めない強さもある。けれど、それだけなら、仲間たちはあの男をあんなふうに怖がらなかったはずだ。
七瀬は天災から現れる怪物を倒し続けた。
世界を救うために、仲間を死なせないために。ひたすら、ただひたすら、回帰を繰り返しながら。
それは救いのない物語。
それでも渚は、七瀬の物語から目を離せなかった。窓を叩く雨音はいつの間にか遠のき、蛍光灯だけが頭上で小さく鳴っている。渚はこの部屋から切り離され、辞書よりも分厚い物語の中へ、少しずつ沈んでいった。
なぜだろう。不思議だった。
文章は拙い。場面は飛ぶ。説明も足りない。けれど、七瀬が次に何を選ぶのか、それだけが気になって仕方がなかった。
渚は、七瀬という人物に惹き込まれていた。
壊れかけた世界の中で、それでも未来を切り開こうとする姿に。そして、何度失敗しても、何度失っても、そこから抜け出そうとする姿に。
いつの間にか、渚は七瀬が回帰の運命を断ち切り、世界を救う結末を想像していた。
しかし、その結末は訪れなかった。
「え、お……終わり? これで!?」
最後の紙を摘まんだまま、渚は何度も前後に動かした。その先にあるのは白い裏表紙だけ。物語は、中途半端なところで途切れている。
七瀬の仲間は死んだ。
七瀬自身がどうなったのかも分からない。
結末は、世界の滅亡――らしい。そうとしか言えない書き方で、物語は唐突に終わっている、
「続きは……?」
破れも落丁もない、続刊があるのかとスマホを手に検索しても、『ろく』という名前の本は出てこない。七瀬玲梓も、天鳴グループも、界律者も、どこにも存在しない。
一晩かけて読み直しても、結末は変わらなかった。心に残ったのは、救いのないバッドエンドだけ。
軽やかな鳥の声が耳に届き、渚は顔を上げた。
カーテンの隙間から、白んだ朝の光が差し込んでいる。それを見て初めて、渚は夜を徹して『ろく』を読んでいたことに気づいた。




