4-7:弧洞の外
山裾に口を開けた裂け目の前には、薄い霧が垂れ幕のように立ち込めていた。地面を縫うように漂う白い靄はひどく冷たく、湿った鉄に似た匂いを周囲へ撒き散らしている。
裂け目の奥では、赤黒い光が鼓動のように脈打っていた。瘡蓋にも似た鉱石の表面には幾筋もの亀裂が走り、ときおり内部から火花が弾けている。
第四十九番弧洞から救難信号と活性化警報が発せられたのは、およそ四十五分前だった。
特務機関本部は警報を受信すると同時に、医療班と作戦局特務作戦課第二班を現場へ派遣した。当初、第四十九番弧洞は一次内定によって《C1》と判定されていたが、到着直後に行われた簡易外部測定では数値が《A3》に迫っていた。
二次判定で誤差が生じること自体は珍しくない。けれど、二段階もの隔たりが出た例は、これまで一度もなかった。
しかも、救助班が到着した時点で弧洞の入口はすでに閉ざされていた。内部へ取り残された者と連絡を取ることも、外側から扉を開くこともできない。
現場が対応を決めかねていた最中、弧洞の入口が何の前触れもなく開いた。その機を逃さず、特務作戦課第二班が内部へ入った。先頭に立ったのは、本来なら現場へ出る役職ではない本部長、獅子屋宗次だった。
獅子屋が自ら入洞を決めたのは、弧洞の急激な変質があまりにも異例だったためだ。第二班から選ばれた四名が同行し、残る隊員と医療班は、活性化の拡大と終末装置の影響に備えて外部対応へ回っている。
弧洞調査課第四班のうち、和久田たち五名はすでに保護されていた。
残されているのは、隊長の坂田と、隊員の椎野渚だった。
二人がどのような状態でいるのかは分からない。医療班は担架と処置器具を入口の前へ並べ、いつでも動けるよう待機を続けていた。
裂け目から噴き出す空気には、重く粘つくような湿気が混じっている。低危険度を装っていた外皮を剥がされ、弧洞そのものが、むき出しの圧力を周囲へ放っているようだった。
やがて、亀裂の中心で赤い光が渦を巻いた。
その内側へ白く鋭い線が走り、閉ざされていた入口が少しずつ開き始める。
「来るぞ。全員、構えろ」
待機していた隊員たちが一斉に顔を上げた。医療班は担架の位置を整え、第二班の隊員は裂け目を囲むように武器を構える。
出てくるのが獅子屋たちとは限らない。
内部に潜んでいる異形が、入口を押し開けている可能性もあった。
誰もが息を詰めて見守る中、裂け目が大きく広がった。白い光が内側から溢れ、続いて突風が地面を叩く。
入口を覆っていた霧が一気に押し流され、巻き上がった砂塵が隊員たちへ吹きつけた。何人かが腕で目元を庇い、その向こうへ視線を凝らす。
「あっ、本部長です!」
誰かの声が上がった。光と煙の向こうから、長い脚が裂け目を跨いで現れる。
「本部長だ。搬送経路を空けろ!」
救助班の指示が飛び、現場の動きが一気に揃った。隊員たちは左右へ分かれ、医療班が担架を押して入口へ走る。
先頭にいたのは獅子屋だった。
その背後から特務作戦課第二班の四名が続き、二人ずつに分かれて、意識を失った坂田と渚を運び出してくる。
全員の姿を確認した瞬間、その場に満ちていた緊張が、わずかに緩んだ。
獅子屋は入口を抜けると、足を止めることなく周囲を見渡した。負傷者、医療班、裂け目の状態を順に確かめ、すぐに指示を出す。
「搬送を優先して。二人分の処置スペースを確保し、すぐに医療車へ」
「はい。こちらへ!」
「担架を前へ。急げ!」
硬い靴底が地面を叩き、医療器具の留め具が次々と外されていく。無線の返答が重なっても、誰かの動きを妨げることはなかった。
渚が担架へ移されると、獅子屋は手首のデバイスを確認した。罅割れた画面には、能力負荷を示す赤い警告が残っている。
「椎野隊員の界律能力がひどく乱れている。処置を急いで、界律能力管理課にも連絡を入れてくれ」
「了解しました」
医療班の動きがさらに速くなる。
そこへ、特務作戦課の特別補佐官である菱木瑛が歩み寄った。手には外部測定の結果を表示した端末を持っている。
「本部長、弧洞の安定化についてですが」
「終末装置は破壊した。活性値も下がり始めているから、いずれ安定するだろう。ただし、消滅までは記録を続けて」
獅子屋の答えを聞き、菱木は端末へ目を落とした。
「外へ出られたということは、やはり本部長が最奥まで到達されたのですね」
「到達しただけだよ」
獅子屋は短く答えると、運ばれていく渚へ視線を向けた。
「私がしたのは、最後に終末装置を壊したことだけだ。つまりおこぼれだね。道を切り開いていたのは、椎野隊員だろう」
「椎野隊員が、ですか」
菱木の声には、隠しきれない疑念が混じった。
「彼女はC級の界律能力者だったはずです。内部の変質が測定どおりなら、単独で進める状況とは思えません」
「坂田隊長は意識を失っていたようだからね。状況を見る限り、弧洞の怪物も、椎野隊員が倒したんじゃないかな」
「能力の虚偽申告でしょうか」
「どうだろうね。まあ、本人が目を覚ましてからでいいよ」
獅子屋はわずかに口元を緩めたものの、灰色の目には慎重な光が残っていた。
「本人にも分かっていない可能性があるからね」
そう言い残し、獅子屋は医療車へ運び込まれる渚のもとへ向かった。途中で無線を受け取りながら、担架へ繋がれた医療機器の表示へ目を走らせる。
「椎野隊員の状態は?」
「能力消耗がかなり深刻です。界律残量がほとんど残っていませんが、暴走の兆候は確認されていません。しばらく休息と経過観察が必要になります」
「負傷は」
「腹部を中心に裂傷と打撲があります。止血は始めていますが、詳しい状態は搬送後に検査します」
獅子屋は頷き、もう一台の担架へ視線を移した。
「坂田隊長はどうだい」
「目立つ外傷は多くありません。ただし、内臓損傷についてはまだ判断できません。精神汚染の有無も、覚醒後の検査が必要です」
「分かった。二人とも、状態が変わればすぐ報告を」
そこへ、別の医療班員が坂田を乗せた担架を運んできた。
「坂田隊長、搬送準備に入ります」
二人の処置が始まったことを確認し、獅子屋は一度だけ渚へ視線を戻した。
担架が医療車へ向かって動き出す。
獅子屋は数歩だけその横を歩き、すれ違う直前、渚の額にこびりついていた乾いた泥を指先でそっと払った。
「搬送を頼むよ」
「はい。お任せください」
獅子屋は担架が医療車へ収まるまで見届けると、小さく息を吐いた。それから表情を戻し、背筋を伸ばす。
「――さて、まだ、仕事は残ってる」
視線の先では、弧洞の裂け目が不規則に明滅していた。
獅子屋は隊員から差し出された記録端末を受け取り、測定値へ目を通していく。先ほどまで赤く振り切れていた波形は、ゆっくりと下がり始めていた。
「残存反応と波形の解析を頼む。弧洞はまもなく消滅するだろうけど、最後まで観測を続けてほしい。焦らなくていいから、記録だけは正確に残してくれ」
淡々とした声が広がるにつれ、現場のざわめきが静まっていった。
隊員たちはそれぞれの持ち場へ戻り、計測器の設置、周辺の封鎖、記録の回収を再開する。交錯していた足音や無線の声も、次第に一定の流れへ整っていった。
獅子屋宗次は、特別に声を張り上げたわけではなかった。彼がそこに立ち、必要なことを一つずつ告げるだけで、散らばりかけていた現場の重心が、再び一つへ集まっていた。
次回、第五話『シノ』
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