4-6:よくやった
「はぁ……は、あ……。か、勝った……?」
渚は笑いとも息切れともつかない声を漏らしたが、勝ったという実感はどこにもなかった。ただ生き残ったという事実だけが遅れて身体へ染み込み、その安堵に引きずられるように全身から力が抜けていく。
泥の上へ倒れたまま、渚は薄く目を閉じた。遠くで何かが崩れる音を聞いた気がしたが、それが何だったのかを確かめる前に、意識は暗闇へ沈んでいった。
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「……あっ」
肺が突然膨らみ、渚は溺れていた水面へ浮かび上がるように息を吸った。心臓が数拍遅れて激しく跳ね、途切れていた感覚が少しずつ身体へ戻ってくる。
しばらく瞬きを繰り返したあと、自分が意識を失っていたのだと気づいた。どれほどの時間が経ったのかは分からない。弧洞の冷たい空気が頬を撫で、傷口へ入り込むたび、鈍い痛みが身体の奥へ広がった。
渚は両腕で床を押し、ゆっくりと上半身を起こした。手足は自分のものではないように重く、少し動くだけでも関節が軋んだ。
壁へ手をつきながら周囲を見渡すと、少し離れた場所に坂田が倒れていた。渚はふらつく足を引きずり、そのそばまで歩いた。
坂田の胸は、わずかに上下していた。
生きていると分かった瞬間、膝から力が抜けかけた。渚は壁へ肩を預けて踏みとどまり、泥と血に汚れた胸元へ手を当てて呼吸を確かめた。
浅いが、途切れてはいない。
安堵して息を吐いたとき、手首に微かな振動を感じた。視線を落とすと、罅だらけになったデバイスが、まだ赤い光を点滅させている。
画面はひどく損傷していたものの、表示はかろうじて読めた。先ほどまで画面を埋めていたエラーの文字は消え、代わりに新しい警告が浮かんでいる。
――『界律能力危険域』
『界律能力危険値:92%』
『界律残量:5%』
『疲労指数:95%』
限界が近いどころではなかった。身体の感覚と照らし合わせれば、立っていられること自体が不思議なくらいだ。
それでも端末が生きているのなら、救助を呼べるかもしれない。渚は血と汗で滑る指を画面へ走らせた。
何度触れても表示は切り替わらず、罅の奥で赤い点滅だけが続いた。側面のボタンも、底部の操作部も反応しない。
画面の右上には、《通信遮断中》と表示されていた。
「圏外……なの……」
掠れた声が、誰もいない広間へ落ちた。
渚は顔を上げ、先へ続く暗い通路を見た。後ろの扉は閉ざされているが、前方にはまだ道が続いている。
ここで助けを待つか、それとも自力で出口を探すか。どちらを選んでも危険なのは変わらなかった。
弧洞は、侵入からおよそ十五分で入口が固定される。渚の中に残っていた知識が、断片的に蘇った。
固定された入口は、内部の終末装置が破壊されるか、弧洞側の条件が満たされるまで、外から開くことができない。最初の十五分は、調査員が内部を確認し、撤退を判断するための猶予にすぎなかった。
その時間は、とっくに過ぎている。
外からの救助が可能になるまで待つ方法もある。けれど、入口が再び開くまでの時間は弧洞ごとに異なり、数分で済む場合もあれば、何年も閉じたままになる例さえある。
第四十九弧洞がどちらなのか、渚には分からなかった。
このまま待っても、助かる保証はない。
残された道は、最奥にある終末装置を壊し、弧洞そのものを無力化することだった。
渚は暗い通路を見つめた。闇の先に何がいるのかも、どこまで続いているのかも分からない。それでも、進まなければ出口には辿り着けない。
「行くしかない、よね……」
声に出すと、その言葉だけが頼りなく通路へ吸い込まれた。
渚は《拡張ポケット》を探り、治療薬の瓶を取り出した。激しい戦闘のあとでも、内部にしまわれていた瓶は割れずに残っている。
課から支給された薬を、渚の能力で再現したものだった。傷を瞬時に治すほどの力はなく、止血と鎮痛に役立つ程度だが、今はそれでも十分だった。
震える指で蓋を開け、瓶へ口をつける。冷たい液体が喉を通った直後、舌へ強い苦味とざらつきが広がった。
「うぅ……まずい……」
粉薬をぬるま湯へ無理やり溶かしたような味が、口の中へまとわりつく。それでも少し待つと、脇腹の痛みがわずかに遠のき、荒れていた呼吸も僅かに整った。
渚はもう一本の瓶を取り出し、坂田の隣へ膝をついた。頭を支えながら、治療薬を少しずつ口元へ流し込む。
「うっ、ごほっ……!」
坂田の喉が引きつり、肺の底から咳が込み上げた。意識は戻らないままだったが、眉間には深い皺が寄り、苦味を噛み潰すように口元が歪んでいる。
反応がある。そのことに、渚はようやく肩の力を抜いた。
そこで初めて、掌に残っていたはずの感触がないことへ気づいた。
鍵がない。
泥の中で光っていた小さな鍵も、頭の内側へ語りかけてきた声も、どこにも見当たらなかった。
渚は地面へ手を伸ばし、砂利と泥を掻き分けた。爪の間へ石が食い込んでも構わず、あの硬い感触を探したが、何度手を動かしても指先へ触れるものはなかった。
あれは本当に存在していたのだろうか。
けれど、見えた文字も、獣の攻撃を避けられたことも、夢では説明がつかない。掌にはまだ、微かな温かさが残っていた。
渚は短く息を吐き、鍵を探すのを諦めた。坂田の腕を自分の肩へ回し、痛む身体を叱りつけるように立ち上がる。
坂田の体重が加わると、膝が再び崩れそうになった。それでも渚は壁へ手をつき、暗い通路へ足を踏み出した。
靴裏で砕ける石片の音が、長いあいだ闇の中へ続いた。
やがて通路を抜けると、空気がはっきりと変わった。
壁際に並んだ篝火が、渚たちの侵入を待っていたように、ぼう、と炎を灯す。湿った泥の匂いは薄れ、代わりに焼けた金属の臭いが鼻を刺した。
部屋の中央には石の台座があり、その上に黒い金属の塊が置かれている。拳を二つ並べたものより一回り大きく、黒鉄色の滑らかな表面が、篝火の光を鈍く反射していた。
ただの金属にしか見えない。
けれど、それが何なのかを、渚の身体は知っていた。
終末装置。
弧洞を固定し、内部の異常を外の世界へ繋ぎ止めている核だった。
これを壊せば、出口が開く。
渚は坂田の身体を壁へ預け、浅く息を吸ってから台座へ向き直った。
まずは短剣を使う。それしか思いつかなかった。
けれど、柄へ指が触れたところで、手から力が抜けた。
握れない。
台座へ一歩近づくたび、脚の奥から力が失われていく。脳は進めと命じているのに、その命令が身体の途中でせき止められているようだった。
「待って……。壊さなきゃ……」
渚は台座へ向かって手を伸ばしたが、指先は届かなかった。
頭の内側が大きく回り、膝が崩れた。数歩たたらを踏んだあと、身体は坂田のほうへ戻ることもできず、そのまま前へ倒れていく。
まだ終われないと思ったときには、視界いっぱいに土の色が迫っていた。
床へぶつかる衝撃を覚悟した。
けれど、腹のあたりへ後ろから腕が差し込まれ、傾いた身体を柔らかく受け止められた。
「おっと。間に合ったな」
深く芯の通った声が、頭上から降ってきた。
背中越しに、ばちり、と静電気の弾けるような音が聞こえる。
「……え?」
渚はゆっくりと首を動かし、片目だけで後ろを見た。
ぼやけた視界の中で、茶色の髪が揺れている。その周囲では、白い残光が細かな火花となって散っていた。
男は渚の身体を支えたまま、安堵したように息を吐いた。口元には柔らかな笑みが浮かんでいるが、濡れた睫毛の奥にある灰色の目は鋭く、周囲の状況を一瞬も見落とさないように静かに動いている。
S級オペレーター、獅子屋宗次。
「ここまで変質していたとはね。嫌な予感がして、正解だった」
獅子屋の視線が、渚の壊れかけたデバイスへ落ちた。そのあと壁際に横たわる坂田を確認し、もう一度渚へ目を戻す。
「君が椎野渚隊員で、向こうにいるのが坂田隊長。間違いないね?」
渚はゆっくりと頷いた。
「ずいぶん無茶をしたようだ。けれど、よくここまで耐えた。もう大丈夫だから、ここを出よう」
「あなた、は……、どうして、ここに……」
問いかける声は、ほとんど息にしかならなかった。
獅子屋は渚を片腕で抱えたまま、もう一方の手を腰の刀へ添えた。鞘口へ指が触れた瞬間、白い雷光が刃へ流れ込み、彼の横顔を一瞬だけ照らす。
眩しさに輪郭が霞み、渚は目を細めた。
稲妻の白が獅子屋の頬を縁取り、整った横顔へ深い影を落とす。冷たく見えるほど静かな表情をしているのに、渚の身体を支える腕だけは揺るがなかった。
「目を閉じていて」
獅子屋は静かに呼吸を整え、一歩だけ前へ出た。その動きに合わせて、刀の鞘が、こつ、と控えめな音を立てる。
刀身が抜かれた瞬間を、渚は捉えられなかった。
獅子屋が鯉口を切り、再び刃を鞘へ戻すまでの間に見えたのは、一筋の紫電だけだった。
空気が薄く裂け、青白い光が部屋を横切る。続いて、乾いた破裂音が鋭く跳ねた。
黒鉄の塊へ、真一文字の亀裂が走る。
内部から強い光が溢れ、次の瞬間には核が砕け散った。砂塵と閃光が台座を包み込み、光が収まるころには、終末装置は跡形もなく消えていた。
爆ぜる光の中でも、獅子屋の腕は揺れなかった。
渚だけは落とさないと、最初から決めているような安定した支え方だった。間近で雷光を浴びたせいか、腕や背中へ微かな痺れが走る。
獅子屋は何事もなかったように刀を腰へ納め、砕けた台座を見た。
「ふむ……。これで出口が開くかな」
その言葉に応じるように、台座の前の空間へ青白い光の線が走った。細い亀裂は上下へ広がり、闇の中へ新しい出口を作っていく。
光が強すぎて、渚はもう目を開けていられなかった。頭は大きく揺れ、周囲の音も少しずつ遠ざかっていく。
身体が下へ沈んでいくような感覚に、抗う力は残っていなかった。
「もう大丈夫だ。帰ろう」
不思議なほど静かな声だった。
その響きが胸の奥をそっと撫で、渚の意識とともに、ゆっくりと暗闇へ沈んでいった。




