4-5:運命を読む力
【獣の右手が、ふりかえった渚の左側にふりおろされる】
文字を読み終えた瞬間、渚は反射的に首を左へ向けた。視界の端で、獣の右腕が大きく振り上げられている。予告されたとおり、爪は渚の左側から叩き潰す軌道を描いていた。
間に合ってほしいと願いながら、渚は震える指先へ意識を集めた。喉が乾いた紙のようにひりつき、腹の傷が脈打つ。その痛みと引き換えに、掌の中で水が揺れ始めた。
渚の身体を覆うように、薄い水の膜が立ち上がる。振り下ろされた爪が膜へぶつかり、激しい音とともに水が砕け散った。飛沫の向こうでは、獣の複眼が相変わらず落ち着きなく動いている。
防ぎきることはできなかったが、爪の軌道はわずかに逸れた。
渚はその一瞬の緩みへ身体を滑り込ませ、獣の懐へ転がり込んだ。頭上では巨体から泥が滴り、耳のすぐ横へ重たい雫が落ちる。
腹の真下へ入り込むつもりなどなかった。ただ死にたくない一心で、水と、獣の泥を溶かした何かを無理やり混ぜ合わせ、目の前へ放っただけだった。
ぱん、と乾いた音がした。
水弾が獣の腹へ触れた瞬間、表面を覆う泥が内側から弾けた。液体は一つの塊のまま留まらず、幾つもの粒へ割れながら肉の奥へ潜り込んでいく。
「えっ……」
渚は思わず声を漏らした。
こんな撃ち方を考えた覚えはない。水を散弾のように分け、内側へ食い込ませる方法など、今の渚は知らないはずだった。
黒い皮膚がじゅう、と音を立てて煙を上げる。獣の複眼が一斉に揺れ、苦痛に身を捩った。
その反応よりも、渚は自分の身体に起きたことのほうが恐ろしかった。
考える前に、手が動いていた。経験から導いたのではなく、もっと深いところに沈んでいた何かが、渚の意思を追い越して表へ出てきた。
本来の椎野渚が積み重ねてきた戦い方だった。今ここにいる渚が一度も試したことのない能力の扱い方も、獣との間合いの取り方も、身体の奥にはすでに染みついている。
違和感は消えなかった。それでも、この異常な場所で動けているという事実だけが、渚の命を繋いでいた。
毒性を帯びた液体に触れた場所から、ぼたぼたと黒い泥が剥がれ落ちる。床へ落ちた塊はすぐには静まらず、どろりと形を変えながら互いへ吸い寄せられていった。
渚の頭に、先ほどまで次々と生まれていた小型の獣の姿が蘇る。
また分裂するのかもしれない。
唾を飲み込み、短剣を構え直した。けれど、集まった泥には脚も牙も生えなかった。輪郭を作ろうとすることもなく、幾度かうねったあと、床へ貼りつくように静まっていく。
樹液の効果は、まだ切れていないらしい。
渚は胸の奥に溜まっていた息を、ようやく吐き出した。跳ね続ける心臓を押さえるように、短剣を握る手へ力を込める。
このままなら戦える。うまくいくかどうかではなく、もうやるしかなかった。
――『いいよ、そのまま。次の行を読んで』
あの声が、頭の奥で水音のように揺れた。
視界に、再び白い文字が滲み出す。
【けもののむねの中に赤いかたまり。渚はそれをこわそうと思った】
獣の腹を覆う泥が剥がれた裂け目から、赤い光が漏れていた。一定の間隔で明滅しながら、ぎゅう、と内側から収縮している。
心臓のようだった。
「あれだ……」
理由を説明できるほどの確信はなかった。それでも渚には、あれが獣の核だと分かった。
あれを壊せば、終わらせられる。
渚は痛む脇腹を押さえ、短剣の柄を強く握った。指先は震えていたが、視線は赤い光から逸らさなかった。
ここで決める。
獣が吠え、四肢を床へ叩きつけた。泥が四方へ飛び散り、轟音が地鳴りとなって洞窟を揺らす。
その振動に視界がぶれた瞬間、新しい文字が走った。
【なぎさはとびこむ。だけど、けものの尾がとんできて、たたきつけられた】
【そのままつらぬかれて、たくさん血を流して死んだ】
「……え?」
読み間違いではなかった。
白い文は、はっきりと渚の死を記していた。
飛び込めば、尾に打たれる。そのまま身体を貫かれ、血を流して死ぬ。
獣は渚が理解するのを待たず、身体をしならせて飛びかかってきた。無数の目が渚を捉え、鋭い爪が迫る。
渚は咄嗟に身を捻り、背中を地面へ擦りつけるように転がった。そのまま核へ向けて水弾を放ったが、液体は届かなかった。
獣の腹部を覆う影が動き、赤い核を包み込むように塞いでいく。
遠くからでは壊せない。
核を狙うには、獣の懐へ入らなければならなかった。
獣が床を蹴った。泥の塊が跳ね上がり、黒い巨体が渚を押し潰す勢いで迫ってくる。伸ばされた腕の先で、爪が視界いっぱいに広がった。
渚はぎりぎりのところで上体を左へ捻った。脇腹の傷が裂けるように痛んだが、奥歯を強く噛み、地面を転がる。
起き上がるより早く、巨大な影が頭上を覆った。
渚は両手で床を押し、身体を起こした。その勢いのまま右足で地面を蹴り、左足を大きく前へ踏み出す。
獣の下へ抜けるため、懐へ飛び込んだ。
その瞬間、全身を雷に打たれたような戦慄が走った。
視界に浮かんだ文章が、脳裏へ鮮明に蘇る。
【なぎさはとびこむ】
渚は今、書かれていたとおりに飛び込んでいた。
その先に続いていた文も、嫌でも思い出された。
【けものの尾がとんできて、たたきつけられた】
【そのままつらぬかれて、たくさん血を流して死んだ】
胸の奥が一気に冷えた。
視界の端で、獣の尾が持ち上がっている。しゅ、と空気を裂く音がして、赤黒い泥が飛び散った。
このまま進めば死ぬ。
白い文が見せているのは、避けられない結末ではない。これから起こり得る未来の一つなのだと、渚はようやく理解した。
――『じゃあ、変えればいいのさ。その行を書き換えるんだよ』
声が楽しげに囁いた。
未来は、まだ確定していない。
獣の尾が飛んでくる。その先で叩きつけられ、身体を貫かれる。
そこまで見えているなら、同じ動きを続ける必要はなかった。
渚は重心を左へ倒した。右肩を引き、腰を落とし、予告された軌道から身体を半歩だけ外へずらす。
尾が風を裂き、腹のすぐ横を薙いだ。
冷たい風が背中を撫で、脇腹の傷が引き攣る。渚は息を詰めながらも、右足へ体重を乗せ、崩れかけた体勢を立て直した。
そのまま振り向きざまに、右手の短剣へ水をまとわせる。
液体が刃の先へ集まり、圧力によって細く鋭く伸びた。青白い弧を描く水の刃を、渚は下から右上へ一気に振り上げる。
斬撃は尾の根元へ食い込み、泥の影を断ち切った。その下に隠れていた肉まで裂け、濁った血が噴き出す。
獣は咆哮を上げ、体勢を崩した。尾を失った反動で均衡を保てなくなり、巨体が渚の右側へ大きく傾いていく。
――ずしゃあっ!
背中が岩壁へ叩きつけられた。
大岩を砕くような衝撃音が洞窟全体を揺らし、泥と粉塵が四方へ飛び散る。渚は顔を背け、腕で目元を庇った。
獣の動きが、ほんのわずかに止まった。
傾いた巨体の下で、腹部に大きな隙間が開いている。その奥では、赤い核が無防備に脈打っていた。
今しかない。
渚は迷わず、獣の脚の間へ滑り込んだ。
頭上から黒い泥が垂れ、その奥で核が赤い光を放っている。手を伸ばせば届きそうに見えるのに、短剣の長さでは届かない。
「ああぁっ……!」
喉は焼けつくほど乾いていた。それでも渚は短剣を腹部へ深く突き刺し、握った柄へ両手の力を込めた。
刃の先を、もっと長くする。
核まで届くほど細く、鋭く伸ばし、そのまま貫く。
渚は頭の中へその形を叩き込み、短剣へ水をまとわせた。
圧力が一気に膨らみ、刀身の先から水の刃が伸びていく。渚は全身を伸ばし、短剣を真上へ突き上げた。
青白い刃が泥の層を貫き、その奥にある赤い核へ届く。
硬いものが砕ける感触が、柄を通して両腕へ返った。
水の刃は核を突き抜け、獣の背中まで貫通した。頭上から降り注ぐ泥を浴びながら、渚は残った力を振り絞り、短剣をさらに押し込んだ。
赤い光が、内側から砕け散った。
獣は洞窟を揺るがす断末魔を上げ、壁や床へ身体を激しく打ちつけた。その衝撃で短剣が引き抜かれ、渚の身体も巨体に弾き飛ばされる。
「うっ……!」
渚は硬い床へ叩きつけられ、そのまま二度、三度と転がった。肩や肘を打つたびに鋭い痛みが走り、息を吸うことさえ忘れて、その場へ崩れ落ちた。
それでも獣は、まだ動いていた。
狂ったように頭を振り回し、無数の目をあらぬ方向へ走らせる。やがて、そのすべてが再び渚へ向けられた。
裂けた口から牙が覗き、獣は最後の力で床を蹴った。
渚には、もう身体を動かす力が残っていなかった。避けることも、腕を上げることもできず、噛み砕かれる未来だけが目前へ迫る。
けれど、獣の口は半ば開いたまま、渚へ届く直前で止まった。
巨体の輪郭が揺らぎ、泥の表面へ細かな亀裂が走る。やがて黒い影は内側からほどけ、崩れた砂のように床へ落ち始めた。
牙も、爪も、無数の目も、形を保てないまま黒い粒へ変わっていく。
最後に赤い光の残滓が一度だけ瞬き、獣の身体は跡形もなく消えた。




