4-4:鍵
ぼたり、と獣の口から零れた泥が、渚の頬を伝って床へ落ちた。
噛み砕かれるはずだった痛みが、いつまで経っても来ない。渚は泥の中で光る物体から視線だけをずらし、恐る恐る獣を見上げた。
獣の口は、渚の鼻先でぴたりと止まっていた。喉の奥では黒い泥がぶくぶくと泡立ち、灰色の舌がゆるやかに波打っている。それなのに、牙はそれ以上落ちてこない。
止まっているというよりも、引き延ばされているようだった。獣の動きも、頬を伝う泥も、洞窟の空気さえも、見えない力によってひどく遅くされている。
渚の意識だけが、その中で奇妙なほど鮮明だった。
――いま。
誰かに告げられたわけでもないのに、これが生死を分ける瞬間だと分かった。腹を裂く痛みも、喉を塞ぐ恐怖も、すべてが意識の後ろへ押しやられていく。
動かないはずだった身体へ、わずかに力が戻った。
渚は泥を掻き、光る物体へ向かって腕を伸ばした。頬のすぐそばに転がっていたそれは、鍵によく似た形をしていた。
金属のように硬質な輪郭を持ちながら、どこか生き物めいている。金色の光が一定の間隔で脈打ち、そのたびに渚の鼓動まで引かれるように速くなった。
あと少しだった。
指先は泥を滑り、鍵の手前で何度も空を掻いた。腹の傷から血が流れ出すたび、視界が白く揺れ、全身を寒気が駆け抜ける。それでも渚は腕を引かなかった。
「届いて……っ」
がっ、と地面の土ごと、その『鍵』をつかみ取る。
裂けた腹のあたりから、ぶわりと寒気が全身を駆け抜けた。視界が白く揺れる。それでも指先はその『鍵』をしっかりと握りしめ、離さなかった。
その瞬間、渚の身体におかしな現象が起きた。
冷たいと思っていた金属は、驚くほど温かかった。掌へ触れた瞬間、裂けた脇腹の痛みがすっと遠のき、身体が急に軽くなる。
全身を這っていた寒気が引き潮のように抜けていき、代わりに、沸騰した血が一気に巡り始めた。肺へ空気が流れ込み、潰れかけていた喉が震える。
脇腹の痛みがすっと遠のき、身体が妙に軽くなった。引き潮のように全身から寒気が抜け、代わりに沸騰した血潮の熱さが満ち潮のごとく押し寄せる。
そのとき、頭蓋の内側へ声が落ちてきた。
音ではなかった。
言葉だった。
――『迷っているんだ。君に力を課すべきか、どうか』
低いとも高いともつかない声が、幾重にも重なっている。耳から聞こえるのではなく、薄い刃のように直接意識へ差し込まれてきた。
不快なはずなのに、渚の身体はそれを拒まなかった。
むしろ、緊張していた芯がぼんやりと溶けていく。眩暈にも浅い酩酊にも似た感覚が、胸の奥へゆっくり広がった。
誰なのかと問いかけようとしても、声は出なかった。
――『でも、君はここへ来てくれた。封印をほどいてくれた』
何を言っているのか分からない。渚はこの場所へ、自分の意思で来たわけではない。封印を解いた覚えもない。声は渚の混乱など気に留めないように続いた。
――『どうしよう。君はどう? あいつ、やっちゃう? 力、ほしい?』
力。
その言葉に、胸を押さえつけていた重圧がわずかに軽くなった。
渚は腕を引き寄せ、掌の中にある鍵を見た。白く澄んだ光が絶えず脈打ち、指の隙間から溢れ出している。
力があれば、生きられるのかもしれない。
目の前の獣を退け、ここから出ることができるかもしれない。
七瀬を探せるかもしれない。
考えが形になるより早く、掠れた声が喉からこぼれた。
「死ねない……。まだ、私、何も見つけてない……」
言葉を吐き出すたび、腹の傷が脈打ち、血の味が喉へ戻ってくる。温かい鉄の匂いが鼻を刺し、震える息が鍵の光へ吸い込まれていった。
「だから……力を、ください……!」
どくん、と光が大きく脈打った。
鍵を中心に白い光が膨れ上がり、渚は眩しさに耐えきれず目を閉じた。声はしばらく沈黙したあと、今度はひどく静かに告げた。
――『そう。君は、選んだんだね』
選ぶ。その言葉を境にして、全身へ温かさが広がっていった。渚が薄く目を開けると、掌の中にあった鍵は形を失い始めていた。
金属の輪郭が光へほどけ、細かな粒となって皮膚の中へ沈んでいく。
痛みはなかった。ただ、自分とは違う何かが、血の中へ混ざり込んでいく感覚だけがあった。
――『なら、君に課そう。君にしか届かない、運命を変える道を』
「……え?」
問い返した直後、止まっていた空気が一気に流れ始めた。
冷たい泥の匂いが鼻腔へ入り込み、耳元で、ぐちゅ、と湿った音が鳴った。
「あ、っ!」
パカリと空いた獣の口が、こめかみの横にあった。ぬるい吐息が頬を撫で、全身の毛が逆立つ。
止まっていた時間が、噛みつく直前の位置から再び動き始めたのだ。
牙が落ちてくる。渚は反射的に身体を捻り、泥の上を滑るように転がった。獣の口が、つい先ほどまで渚の頭があった場所を勢いよく噛み砕く。
「――っ!」
あと少し遅ければ、首から上を丸ごと持っていかれていたはずだ。
何が起きたのかは、まだ分からない。ただ、掌には鍵の温かさだけが残り、握りしめていたはずのものは跡形もなく消えていた。
獣はすぐに上体を起こし、無数の目をぐるりと回した。濁った眼球が一つずつ渚を捉え、やがてすべての視線が同じ場所へ集まる。
その瞬間、視界の端が揺れた。
霧のような白いものが滲み、やがて文字の形を取っていく。
それは、文だった。
【けもののつめが、渚のあたまをつきやぶる】
「いっ!」
渚は反射的に身を引いた。
爪は頬のすぐそばを通り過ぎ、皮膚を裂くことなく空気だけを抉った。それでも頬骨には、焼けるような摩擦の熱が走る。
今の文は、このあと起きることだった。
そう理解した途端、脇腹の傷が強く軋んだ。渚は痛みを押し殺し、床を滑るように身を低く落とす。
黒い脚が頭上を薙ぎ、泥が激しく飛び散った。頬へ当たるたびに冷たさと腐臭がまとわりつき、渚の呼吸を乱す。
「は、は、はぅっ、ふ……っ!」
腹部が引き攣り、上体が前へ倒れそうになる。それでも獣は止まらず、次の爪が横から滑り込んできた。
渚は肩を大きく捻り、背中を壁へ擦りつけながら転がった。黒い爪が空を切り、そのまま床石へ深く食い込む。
そのとき、再び白い文字が視界へ浮かび上がった。
【右ににげた渚を、けものが追う】
それを認識したときには、渚の身体はすでに右へ動き始めていた。右足で床を蹴り、斜め後方へ飛ぶ。
獣もすぐに軌道を変え、渚が通った道をなぞるように追いかけてきた。
「み、……?」
右へ逃げる自分を、獣が追う。獣の巨体が、先ほどいた自分の位置を、その残像をなぞるように通過した。爪は腕一本ほどの距離を掠め、通った軌跡だけが熱を帯びた。
渚の耳の奥で、紙をめくるような乾いた音が鳴った。
ぱらり、と新しい頁が開く。
白い文字が、再び視界の中へ滲み始めた。




