4-3:岐路
渚はその場に立ち尽くした。呼吸をするたびに肋骨の奥がひりつき、肺へ入り込む冷気が、傷ついた内側を薄く削っていく。
遠くで水滴が落ちている。
その音に混じって、ぬちり、と泥が引き剥がされるような気配が聞こえた。背中の皮膚が粟立ち、渚は唾を飲み込むと、漏れそうになる呼吸を細く抑えた。
まだ、いる。
ぬるい腐臭が喉の奥へ入り込み、胃の底を掻き回す。乱れた息を整えようと意識するほど、自分の呼吸だけが広間へ大きく響いているように感じられた。
白く霞んだ霧の向こうで、黒い影がゆっくりと頭をもたげた。巨体を覆っていた泥が、重たい音を立てて床へ落ちる。すぐ近くから湿った吐息が聞こえ、渚は叫びそうになるのを奥歯で噛み殺した。
逃げ場はなかった。背後には閉ざされた石扉があり、進める道は獣の向こうにしかない。視界の端には、意識を失ったまま倒れている坂田の姿があった。
置いていくことはできない。
渚は一度深く息を吸い、細い糸を吐き出すように、ゆっくりと呼吸を落ち着けた。霧の向こうでは、四本の脚が泥を踏みしめている。
腐肉と瘴気に覆われた巨体が、少しずつ姿を現した。
裂けた口の奥では灰色の舌が粘ついた音を立てて蠢き、吐き出された黒い息が霧を押し退ける。腐臭が一気に濃くなり、渚は込み上げてきた吐き気を堪えながら半歩後ずさった。
ここから逃げるには、坂田を背負って獣の横を抜けなければならない。
けれど、この怪物を相手にまともに戦い、勝てるとは到底思えなかった。
今は逃げるしかない。そう判断した直後、獣の咆哮が洞窟の空気を引き裂いた。
衝撃が鼓膜を叩き、渚はよろめいた。天井から砂と細かな石が雨のように降り注ぎ、揺れた視界の中で、獣が床を蹴る。
泥を弾き飛ばしながら、巨体が一息に距離を詰めてきた。渚は脚へ力を入れたが、疲労と痛みで膝が思うように伸びない。
「う、ごいて……!」
鋭い爪が肩先を掠め、制服が裂けた。髪が数本宙へ散り、頬にも細い傷が走る。何が起きたのか理解するより遅れて、肩から熱い痛みが広がった。
「……っ!」
渚は横へ転がった。
泥水へ右肘を強く打ちつけ、骨を伝って痺れが走る。肺から空気が押し出され、指から短剣が滑り落ちた。
それでも、渚は泥の中へ手を伸ばした。指先で岩や千切れた花弁を掻き分け、どうにか短剣の柄を探り当てる。
獣が渚へ向かって歩いてくるたび、泥水の表面に細かな波紋が広がっていく。黒い息が霧となって足元を這い、触れた場所から体温を吸い取った。腐臭の奥には鉄に似た味があり、乾いた喉をさらに焼いた。
「ごほっ……!」
咳き込んだ瞬間、喉の奥が裂けたように痛んだ。口元を覆った手のひらには、赤い飛沫が散っている。
このままでは、自分も坂田も死ぬ。
そう理解した途端、獣が前脚を振り上げた。
「いや……っ」
渚は床を転がるようにして一撃を避けた。爪が泥を抉り、冷たい破片が頬へ飛び散る。
死にたくない。
迫る爪を避けながら、渚は短剣を握り直した。もう片方の腕を獣へ向け、ほとんど祈るように液体を呼ぶ。
指先から放たれた一筋の液体が、空中で膨らんだ。奔流となったそれは獣の巨体へぶつかり、重い衝撃音とともに泥の表面を打ち据える。
じゅう、と何かが焼ける音がした。
液体が触れた箇所から、獣の身体を覆っていた泥がばしゃりと剥がれ落ち、その下に隠れていた黒い皮膚が露出する。
影のような皮膚の表面から、黒い煙が細く立ち上っていた。獣は低く呻き、明らかに苦しそうに身を引く。
「き、効いた……?」
渚は自分の掌を見つめた。今放ったものは、普通の水ではなかった。色はほとんどないが、獣の泥を溶かすような性質を持っている。
「水じゃない……。何、これ……」
答えを考える間もなく、指先へ異質な重さがまとわりついた。
胸の奥がどくりと跳ね、ぬるりとした黒い液体が掌へ集まり始める。
液体が指の間で渦を巻いた瞬間、覚えのない光景が渚の頭を駆け抜けた。
薄暗い弧洞。呼吸ができないほどの刺激臭。
喉を焼くような苦しさと、胃の中身が逆流するほどの痛み。声すら出せず、地面に伏せていた恐怖。
「なに、これ……っ」
渚自身には覚えがない。それでも身体だけが、その液体を知っていた。舌の奥に鉄錆びの味が蘇り、喉から胸へ鈍い痺れが走る。
混乱したまま、渚は掌を獣へ向けた。黒い液体が幾つもの粒となって飛び、露出した皮膚へ張りつく。獣は耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げた。液体が触れた場所から黒煙が噴き出し、巨体が苦しげに床を掻きむしる。
倒せなくてもいい。
ほんの少し動きを止め、坂田を連れて横を抜けられるだけの時間があればいい。
渚は短剣を握り直し、身体を前へ投げ出すように走った。
獣は目を潰されたまま、渚の位置を見失っている。爪を振り回し、壁や床を砕いているものの、動きは荒く、脇腹が無防備に晒されていた。
掌から溢れた黒い液体を、渚は短剣の刃へまとわせた。粘ついた膜が刀身を覆い、先端から黒い雫が落ちる。
渚は獣の脇腹へ踏み込み、短剣を振り下ろした。泥に覆われた肉へ刃が食い込み、どっと重い手応えが腕へ返る。黒い肉が裂け、濁った血が雨のように飛び散った。獣の口から漏れた悲鳴が洞窟の奥まで響き、腐臭がさらに濃くなる。
渚は顔を背けそうになるのを堪え、もう一歩踏み込んだ。
「はあぁっ!」
短剣を深く突き刺し、開いた傷口へ黒い液体を流し込む。獣の身体が大きく痙攣し、壁へ打ちつけられた骨の枝が甲高い音を立てた。
渚の指先にも、細かな痺れが走っている。けれど、記憶の中でこの液体へ触れたときのような、全身を焼く痛みはなかった。
あのときは、動くことすらできなかった。
今は、触れた場所が痺れるだけで済んでいる。
あのときの――。
渚は浮かびかけた記憶を振り払うように頭を振り、歯を食いしばって短剣を引き抜いた。
獣の身体が大きく傾き、泥の中へ前脚をつく。
いける。
勝てるかもしれないという希望が胸をよぎった。そのとき、ぎょろりと、見えていないはずの獣の目が渚を捉えた。
「あ……」
潰したはずの眼窩に、新しい目が開いていた。
一つではない。二つでもない。
獣の顔から首、背中にかけて、濁った眼球が次々と浮かび上がっていく。
それぞれ別の方向を見ていた無数の目が、やがて一斉に渚へ向けられた。
獣の背中が、不自然に波打った。ひゅ、と空気を切る音がして、渚の死角から、もう一本の前脚が伸びてくる。
弱っていたのではない。痛がっていたのでもなかった。攻撃を誘い、渚を自分から近づかせるために、わざと隙を見せていたのだ。
気づいたときには、もう遅かった。
鋭い爪が、渚の横腹を深く裂いた。
制服が破れる乾いた音のあと、肉を抉られる鈍い衝撃が身体を貫く。熱いものが腹から一気に溢れ、渚は息を詰めた。
「がっ……!」
軽くあしらわれるように、渚の身体は宙へ投げ出されていた。湿った岩壁へ背中から叩きつけられ、肺が潰れたように空気が入らなくなる。
腹の傷から流れ出る血だけが、何が起きたのか理解できない渚を置き去りにして、床へ落ちていった。
「あ……、はっ、は……」
視界が大きく傾いた。膝から力が抜け、渚は泥の上へ崩れ落ちていた。
腹から広がった血が泥水と混じり、黒ずんだ赤となって床へ滲んでいった。身体の内側は焼けるように熱いのに、背骨には冷たいものが這い上がってくる。
痛い。
息ができない。
獣の足音が近づいてきた。一歩ごとに床が沈み、渚の周囲に溜まった泥水が細かく震える。
無数の目が地面に倒れた渚を見下ろしていた。裂けた口が左右へ大きく広がり、まるで笑っているように見える。
口の奥には牙が何重にも並び、泥と血の混じった唾液が糸を引いていた。その内側にある灰色の舌がぬるりと覗き、粘ついた雫が渚のすぐそばへ落ちる。
渚は動けなかった。
腕も脚も命令を聞かず、頭を打った衝撃で、視界は二重にも三重にもぶれている。
獣の巨大な影が、渚の身体を覆った。
ぱかりと開いた口が、ゆっくりと頭上へ降りてくる。
まだ、七瀬にも会っていない。
それなのに、獣の牙はもう目の前まで迫っていた。
喰われる。
――そう思った、その時だった。
「……、っ?」
渚の視界の端へ一筋の光が落ちてきた。
それは、雲の切れ間から差し込む陽光のように、細く、まっすぐに凝固した光。泥にも腐臭にも染まらない、澄み切った色が渚の頬を照らした。
「ああ……」
光だ。迎えが来たのかもしれない。
ぼんやりとそう思った渚のすぐそばで、澄んだ金属音が響いた。
カラーン。
鈴にも似た小さな音だった。けれど、その音は耳の奥へ強く届き、沈みかけていた渚の意識を引き上げる。
渚は音のした場所へ視線を動かした。泥の中に、淡い光を放つ小さな鍵のようなものが落ちている。
「か、ぎ……?」
獣の口が、渚の頭上へ落ちてくる。あとわずかで噛み砕かれるという刹那、泥に沈んだ鍵から光が溢れ、渚の頬を柔らかく撫でた。
洞窟の空気が静止した。
落ちかけていた泥の雫も、迫っていた牙も、渚の頬を伝う血も、すべてがその場へ縫い止められたように動きを失った。
世界そのものが、息を止めた。




