5-1:コード8
第五話 『シノ』
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特務機関の医療区画には、昼夜の区別がほとんどなかった。天井には白い照明が等間隔に並び、磨かれた床へ冷たい光を落としている。行き交う職員の姿はまばらで、奥へ伸びる廊下には、二人分の足音だけが静かに反響していた。
先を歩く男は、髪を隙なく後ろへ撫でつけ、特務機関の制服を皺一つなく着こなしている。梟屋六司。その隣には、同じように髪を一つに束ねた鹿南玲菜が並んでいた。
二人とも、特務機関管理局監査課に所属する監査官だった。機関内部で起きた規則違反や不正、隊員同士の問題を調査し、記録へ残すことを仕事としている。
「それで、どうして監査課まで呼ばれたんですか」
鹿南が隣を見上げた。声音に不満はなく、ただ必要な情報を確認しているだけのようだった。
監査課へ配属されてから、まだそれほど日が経っていない。梟屋は彼女の直属の上司でもあり、今回が初めて二人で担当する大きな案件だった。
「第四十九番弧洞の話は聞いたか」
「騒ぎになっていることは知っています。一次判定と、実際の等級が違っていたとか」
鹿南は記憶を確かめるように、わずかに視線を上げた。
「《C1》だったものが、現場で《A3》相当まで上昇したと聞きました」
梟屋は無言で頷いた。
「この件は、まだ外部へ公表されていないんですよね」
「当然だ。低危険度と判定された弧洞が、実際にはA級相当だったと知られれば、弧洞判定そのものへの不信を招く。今の段階で不用意に広める理由はない」
廊下を進むにつれ、消毒液の匂いが濃くなっていった。壁際には処置用の器具を積んだ台車が並び、ときおり白衣姿の職員が二人の脇を足早に通り過ぎていく。
「等級変化については、専門部署がすでに調査を始めている。俺たちが確認するのは、内部で人為的な逸脱行為が起きていなかったかどうかだ」
「誰かが、弧洞の活性化に関わった可能性があると?」
「可能性があると決まったわけじゃない。ただ、疑義が出た以上、事実関係は確認しなければならない」
梟屋の口調は淡々としていた。誰かを疑っているというより、決められた手順を確認しているだけのように聞こえる。
「まずは、内部で何が起きたのかを一つずつ拾う。証言が食い違えば、その理由も調べる。それが俺たちの仕事だ」
鹿南は小さく息を吸い、手元の端末へ視線を落とした。
「対応していたのは、弧洞調査課第四班ですよね。以前から負傷者を多く出していた班ですが、今回は死者が出なかったと聞きました」
「隊員四名は早い段階で外へ出ている。残ったのは、坂田泰司隊長と椎野渚隊員の二名だ」
梟屋は歩調を緩めずに続けた。
「坂田隊長が意識を失っている間に、椎野隊員が内部の大型異形を倒したと見られている。その後、彼女は終末装置のある場所まで坂田隊長を運び、破壊に取りかかろうとしたところで力尽きた。最終的に装置を破壊したのは、救助へ入った獅子屋本部長だ」
「椎野隊員はC級でしたね」
「そうだ」
「C級の隊員が、A級相当まで活性化した弧洞で大型異形を倒した。確かに、珍しいですね」
「珍しいだけで済めばいいがな」
梟屋の返答に、鹿南はわずかに眉を動かしたものの、それ以上は尋ねなかった。
二人は医療区画の奥へ進み、一つの個室の前で足を止めた。扉の横に設置された表示板には、《坂田泰司》の名が浮かんでいる。
「坂田隊長から、監査課へ直接話したいことがあると連絡が入った」
梟屋は声を少しだけ落とした。
「本人は、椎野隊員から攻撃を受けたと主張している」
「椎野隊員が、坂田隊長を?」
「そういう話だ。だから今回は、弧洞の調査だけでは終わらない」
鹿南は扉と梟屋を交互に見た。
「今日は、私が調書を取ってもいいでしょうか」
「ああ。任せる」
梟屋は端末へ手を伸ばしながら、横目で鹿南を見た。
「坂田隊長を信じる必要も、疑う必要もない。俺たちの仕事は、話の中に不自然なところがないかを確かめることだ」
「分かっています」
鹿南は迷いなく頷いた。
「それと、坂田隊長は以前から問題の報告が多い。椎野隊員にも過去に監査が入った記録がある。精神状態について経過観察が付いていた時期もあったはずだ」
「記録は確認しました。今回の聴取が終わったあと、関連資料を詳しく見せてください」
「もちろんだ」
梟屋が端末を操作すると、小さな電子音が鳴り、自動扉が静かに左右へ開いた。
病室には消毒液と薬品の匂いが漂っていた。二人が中へ入ると、ベッドで横になっていた坂田が反射的に上体を起こしかける。
しかし、胸か腹に痛みが走ったのか、すぐに顔を歪めた。片手で身体を支えながら、ゆっくりと枕へ背を戻していく。
外から見える傷は少なかった。頬や腕に擦過傷が残っている程度で、包帯も多くない。それでも呼吸は浅く、額には薄い汗が滲んでいた。
苦しそうには見える。
ただし、伏せられた目の奥だけは、妙に冴えているように鹿南には感じられた。
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「正直に言えば、全部は憶えていないんだ」
坂田の声は細く、何度も途切れた。息を吸うたび、胸の内側が痛むように眉を寄せる。
「だが、これだけは間違いない。あいつは、俺を殺そうとした」
鹿南はベッドの脇へ置いた椅子へ腰を下ろし、端末を膝の上に構えていた。梟屋は少し離れた位置に立ち、腕を組まず、ただ静かに坂田を見ている。
「俺を怪物の前へ置き去りにして、自分だけ逃げようとしたんだ。最初から、俺を嵌めるつもりだった」
坂田は苦しげに喉を鳴らし、震える指をシーツへ食い込ませた。
鹿南は端末へ視線を落としたまま、一定の調子で尋ねた。
「殺されそうになったというのは、具体的にはどのような状況でしたか」
坂田はすぐには答えなかった。天井の一点を見つめ、記憶を辿っているように数秒黙り込む。
「奥に、妙な扉があった。俺たちは調査のために中へ入ったんだが、椎野が足を踏み入れた途端、怪物が次々と現れた」
ゆっくりと息を吐き、坂田は続けた。
「そのあと、さらに大きな怪物が出てきた。あいつは俺を囮にして、その場から逃げようとしたんだ」
梟屋が一歩だけベッドへ近づいた。
「椎野隊員が、意図的にあなたを怪物の前へ残したということですか」
「そう言ってるだろう。それだけじゃない。他にもある!」
坂田の声がわずかに大きくなった。
鹿南は端末を操作していた指を止め、顔を上げた。
「攻撃を受けたと?」
「あいつの界律能力は《特殊液体生成》だ。口にしたものなら、得体の知れない液体でも作れる」
坂田はシーツの上で拳を握り直した。
「以前から、あいつは何を作ったのか分からない液体を隊員へ飲ませていた。今回もそうだ。俺が命令を出した直後、椎野が能力を使った。気づいたときには身体が動かなくなっていた」
「能力を使われた場面は、確認できたのですか」
「霧のようなものを出していた。口と鼻を塞がれて、息ができなくなったんだ。それに、俺が意識を失っている間にも、何かを飲ませたはずだ」
「それが何だったのか、心当たりはありますか」
鹿南の問いに、坂田は首を横へ振った。
「分からん。だが、あいつのような人間を信用できるわけがないだろう」
声へ苛立ちが混じり始めた。
「治療薬なら、もう少し身体が楽になっていてもいいはずだ。それなのに、目を覚ましてからずっと身体が重い。胸も腹も痛むし、気分も悪い。あいつが毒を盛ったに決まっている……!」
「現時点の検査では、既知の毒物は検出されていません」
鹿南が淡々と告げると、坂田は目を見開いた。
「既知の毒物だろう! あいつは弧洞で見つけた未知の液体まで生成できるんだぞ。お前たちの検査に出ないものを作った可能性だってある!」
坂田は勢いよく身体を起こしかけたが、すぐに胸元を押さえて縮こまった。
「坂田隊長、落ち着いてください。今の話も、調書には残します」
梟屋が低い声で制すると、坂田は荒い息を吐きながら枕へ身体を戻した。
「腹が痛むんだ。こんな話を監査課へするべきか、俺も迷った」
坂田は一度言葉を切った。視線を落とし、次に口にする言葉を躊躇っているように、しばらく黙り込む。
「だが、何か起きてからでは遅い」
「気になることがあるのであれば、話してください」
鹿南が促すと、坂田はゆっくり顔を上げた。
「椎野は以前にも、精神面で問題を起こしているはずだ。任務中に錯乱し、隊員を危険へ晒したことも一度や二度じゃない」
鹿南は端末の記録を開き、画面を数度スクロールした。
「精神状態について経過観察が付いた時期はあります。ただし、現在は解除されています。記録上、その件はすでに解決済みです」
「もし、解決していなかったらどうする」
坂田の声が、そこで初めて低くなった。
「今回の行動も含めれば、《八疑い》の可能性を視野へ入れるべきじゃないのか」
病室の空気が、わずかに変わった。
鹿南は表情を動かさず、端末へその言葉を入力した。梟屋は何も言わず、目を細めて坂田を見ている。
「椎野は以前から危険な行動が多かった。仲間へ害を与えかねないと、俺は何度も報告してきたんだ」
坂田は呼吸を整えるように一度間を置き、さらに言葉を重ねた。
「俺は隊長として、部下を守らなければならない。《八疑い》なんて言葉は、できれば口にしたくなかった。だが、このまま放置すれば、今度こそ犠牲者が出るかもしれない」
鹿南は数秒、黙ったまま坂田を見た。
「分かりました。現時点では可能性の一つとして、確認対象へ含めます」
「ああ。そうしてくれ」
坂田は安堵したように息を吐く。その瞬間だけ、唇の端がわずかに持ち上がった。
すぐに苦しげな表情へ戻ったため、注意していなければ見落とすほど小さな変化だった。
鹿南は端末へ視線を戻し、梟屋も何も言わなかった。
必要な聴取を終えると、二人は坂田へ一礼し、病室を出た。自動扉が閉じると、消毒液の匂いだけが残る白い廊下へ、再び二人分の足音が響き始めた。
坂田の病室から十分に離れたところで、梟屋が歩調を少し緩めた。
「どう見る」
鹿南はすぐには答えなかった。端末に記録された供述へ目を通し、頭の中で順序を組み直しているようだった。
「椎野隊員については、確認が必要ですね」
やがて顔を上げ、まっすぐ梟屋を見た。
「坂田隊長が呼吸を妨げられ、意識を失ったこと自体は事実だと思います。椎野隊員が何らかの液体を使用した可能性も否定できません。《八疑い》についても、監査対象として一度確認する必要はあるでしょう」
「それだけか」
「いいえ」
鹿南は足を止めた。
「坂田隊長についても、詳しく調べるべきです」
梟屋は片方の眉を上げ、面白がるように鹿南を見返した。
「理由は」
「供述のかなりの部分に、嘘が混じっていました」
鹿南の無機質に見えていた表情が、ほんのわずかに緩んだ。黒かった瞳の奥へ、淡い翡翠色が滲んでいる。
それを見た梟屋は、ひゅう、と軽く口笛を吹いた。
「最初から分かっていたのか」
「正確には、話すたびに反応が出ていました。事実をすべて捏造しているわけではありません。実際に起きたことの順序や意図を、自分に都合よく入れ替えています」
「一番厄介な種類だな」
「本人の中では、もう半分ほど事実になっている可能性もあります」
梟屋は小さく笑い、再び廊下の奥へ向かって歩き始めた。
「なら、もう一人の話も聞くとしよう。椎野隊員が目を覚ましていればいいが」
「意識が戻っていなければ、先に記録を確認します」
「頼もしいな、新人」
「褒めても仕事減らしてくれませんよね」
「はは」
鹿南は淡々と返し、梟屋の隣へ並んだ。
二人は次の病室を目指し、昼夜のない白い廊下を、さらに奥へ進んでいった。




