3-10:液体生成
くう、と、獣が怯んで低く身を引いた。
渚と獣の間に、わずかな距離が生まれる。
その隙に、渚は短剣へ絡んだ樹液を見た。
水では傷が塞がった。けれど、この液体をまとわせた刃なら、獣は再生しなかった。
椎野渚の能力は、水を生み出すものではない。一度口にした液体を、生成する力だ。
舌の奥にはまだ鉄と草のえぐみが残っている。身体はもう、この液体を知っている。渚は短剣を握ったまま、もう一方の手を開いた。
渚は手を握りしめて振る。
作り方は、わかっていた。
唇を濡らしたその時から、渚の身体は、その液体を「知って」しまったのだ。
作りたい。ただ、それだけを意識する。
身体の奥に沈んだ感覚を探り、指先へ引き寄せる。喉から胸へ痺れが走り、掌の中心が熱を持った。濁った雫が、皮膚の上に浮かび上がる。
「……でき、た?」
粘りを帯びた液体は、掌から落ちなかった。
胸が熱い。恐怖で膝は震えているのに、頭だけが妙に冴えている。どう動けば活路が開けるか、思考が勝手に次を描き始める。
渚が指先を振ると、雫は細く引き延ばされ、獣へ向かって飛んだ。
空気を裂き、黒い身体を貫くと、獣は短く鳴き形を崩した。泥の輪郭がほどけ、そのまま床へ沈んでいく。
効く。渚は息を吸い、短剣へ樹液をまとわせた。
次の獣が跳びかかる。足は震え、狙いも定まらない。それでも、刃が触れた場所から黒い身体が崩れていった。
一体。もう一体。水で動きを止め、樹液をまとわせた刃で斬る。喉の渇きが増すたびに水筒を口へ運び、再び掌を向けた。
どれほど続いたのか分からない。最後の一体が床へ崩れたとき、広間には渚の呼吸だけが残っていた。
「はっ、はっ、はっ――。私、やったの……?」
黒い染みが足元にいくつも広がっている。渚はその中央で、短剣を握ったまま立ち尽くした。
胸の奥は焼けるように熱い。反対に、手足は血が通っていないように冷たかった。
「……あはっ、すごい、な……わたし……」
声が空洞に吸い込まれる。嬉しいわけではないのに、笑いそうになった。舌の奥にはまだ、えぐみと金属の苦さがこびりついている。水を飲んでも、胸を這う痺れは消えない。
毒かもしれない。そう思った瞬間、身体の奥に別の液体の感覚が浮かんだ。
個人記録に登録されていた治療薬だ。この身体は、それも生成したことがあるらしい。
渚は空になっていた小瓶を取り出し、掌へ意識を集めた。白く濁った液体が少しずつ溜まっていく。その一本分を作ったところで、喉の渇きが強くなった。
渚は生成を止め、そのまま薬を飲み下した。
「うっ……まず……!」
苦味と粉っぽさが舌へ広がり、思わず咳き込んだ。
しばらくすると、腹の熱はわずかに和らいだ。痺れも薄くなったが、裂かれた肩や、壁へ叩きつけられた身体の痛みまでは消えない。
治療薬といっても、傷を一瞬で消すようなものではないらしい。
渚は震える足で立ち上がり、扉へと歩み寄った。押しても、叩いても、爪で縁を抉っても、扉はびくともしなかった。
ゆかりたちは、無事に弧洞を出らえただろうか。入口が封鎖されるまでの十五分は、とっくに過ぎている。
残されたのは、奥へと続く道だけだった。巨大な怪物が坂田を引きずっていった暗い通路がある。
その奥から這い出した空気が、渚の頬を撫でた。
頭に浮かぶのは坂田の顔。横暴で、傲慢で、仲間を切り捨てる上司の顔。助けたいとは思えなかった。それでも――放って逃げても、いいのだろうか。
坂田がどんな人間であっても、まだ生きている可能性がある。何も確かめず、死ぬと分かっている場所へ置き去りにすれば、その選択は渚自身の中に残り続ける。
見捨てたくないのではない。見捨てた自分になりたくなかった。
渚は短剣の柄を握り直した。指も、膝も、まだ震えている。
「……行くしかない」
声にすると、恐怖の中に細い道が一本だけ通った。渚は水筒の残量を確かめ、暗い通路へ足を踏み出した。




