4-1:そのまた奥へ
第四話『覚醒』
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通路の空気は冷たい。吸い込むたび、肺の内側を薄い刃で撫でられるように痛む。
渚は《拡張ポケット》からライトを取り出した。白い光が狭い通路を走り、濡れた岩肌を鈍く照らす。
足元には泥水が溜まり、一歩進むたび、ぬちゃりと靴底が鳴った。自分の居場所を、闇の奥へ知らせているような音がする。
渚は息を潜めながら進んだ。手首では、デバイスが赤い光を明滅させていた。
――「界律能力危険域」
『能力負荷:72%』
『界律残量:18%』
『疲労指数:64%』
数字の意味をすべて理解できなくても、限界が近いことだけは分かった。喉がひどく乾いている。渚は水筒を取り出し、残っていた水を飲んだ。冷たさはすぐに消え、代わりに体内がじりじりと熱を帯びていく。
歩きながら、これまでのことが頭をよぎる。
椎野渚の界律能力――『特殊液体生成』。等級はC級。大量の液体が生成できるわけではなく、使うたびに喉を焼くような渇きが襲い、激しい飢渇感が収まらなくなる。そのデメリットが無ければ、強い力だったのだろう。
口にした液体が再現できる。そう理解してから、考えていることがあった。
――口にした液体の効果は、自分自身の身体にも及ぶのか。
分裂する獣を封じた、あの植物由来の液体。もしあれが「能力を消す」作用を持つなら、それを口にした渚にも、何らかの影響が出るはずだ。液体の効果が、渚の能力をも消す、といったように。
だが、実際は何も起こっていない――と渚は思う。一方で、治療薬は効いていたからだ。
渚の界律能力は液体の効果をすべて遮断しているのではない。
あの植物の液体と治療薬の違いは、渚が生成したものであるか、そうではないか。自らが生成したものは少なからず渚にも効果が届くのかもしれない。
疑問を確かめる術は今はない。自分の能力について、まだ知らないことが多すぎた。
その時、通路の奥から悲鳴が響いた。
「う、うわああああっ!」
渚は顔を上げた。坂田の声だ。痛む身体を押して走り、狭い通路を抜ける。
その先に、広い空間が開けていた。中央では、巨大な異形が坂田を床へ押さえつけている。先ほどの獣を子とするなら、これは親のようにも見える。
泥と血を固めたような巨体。背中から突き出した骨の枝。裂けた口から黒い息が漏れ、床の上を低く這っている。腐った泥の匂いに、吐き気が込み上げた。
「ひ、ひい……たすけ、助けろ……!」
涙と汗にまみれた坂田の顔が、渚を捉えた。縋るよりも早く、坂田は怒鳴った。
「し、椎野っ! 早く俺を助けろぉ!」
異形が爪を振り上げた。
「――っ!」
渚は反射的に掌を開いた。
水。
そう意識すると、指先から透明な雫が浮かび上がる。だが、思うように上手くいかない。水球は小さく、形も脆く、今にも崩れそうだ。それに少し力を使っただけで喉が裂けるように渇き、胃の奥がきしんだ。
それでも渚は水を押し出した。細い水流が異形の腕へぶつかったが、鈍い音がしただけで、巨体は揺らがなかった。
坂田を押さえつけた爪も動かない。
効いていない。けれど、傷口から新しい獣が生まれることもなかった。
異形の赤い目が渚を捉えた直後、その巨腕が渚の方へと振り下ろされた。石床が砕け、破片が宙を舞う。渚は巻き上がった風圧に押されて地面を転がり、間一髪、その鋭い爪の先を避けきった。
「何しやがる! 俺を殺す気か!」
水飛沫を浴びた坂田が怒鳴った。
渚は水滴を鋭い刃に変え、瞬時に飛ばした。せめて少しでも傷を与えられたら。その一心で放った鋭い水圧が獣の目元に当たり、眼孔を裂く。獣は咆哮を上げ、四肢を揺らして暴れ始めた。
どしん、と地面が揺れる。壁の岩が砕け、破片が火花のように散りながら地面に落ちてくる。坂田の身体が爪から振り飛ばされ、床を転がった。
「ぐぅっ」
岩にぶつかりながらも、坂田は咳き込みながら身を起こした。
「げほっ……げほっ……!」
「坂田、隊長。だいじょ――」
言いかけて、渚は口を閉じた。
坂田の顔に、助かった安堵はなかった。こちらを見る目には、煮詰めたような憎悪だけが浮かんでいる。
「何をやってやがる! 来るのが遅ぇんだよ、この鈍間がッ!」
渚は思わず息を呑む。胸の奥に、重く冷たいものが沈んだ。
「俺を盾にして逃げようとしたんだろ! そうなんだな?」
坂田はふらつきながら立ち上がった。
「まったく、使えない奴だ」




