3-8:閉じていく先
渚は足元の短剣を拾い、ほとんど反射的に振り下ろした。
刃が、液体に塞がれた獣の首へ突き刺さる。
硬いものを断つ感触が腕へ返り、黒い体液が噴き出した。獣は一度大きく痙攣すると、輪郭を失い、灰のように崩れていった。
「はっ……はぁ……」
渚は短剣を握ったまま、荒い息を吐いた。
鉄臭さに胃がせり上がる。
生きるためだった。
――生きるために振るった一撃。それが、確かに命を奪った感触だけが、腕に残っている。
頭がふわふわとして、心臓がどくどく激しく暴れている。
そのとき、奥の闇が揺れた。ずしん、と、重たく湿った等間隔の地響きが近づいてきた。
足音だ。
闇の中から、巨大な影のような生き物が這い出してくる。
泥と血を練り合わせたような毛皮。背には白い骨が枝のように突き出し、腹の下では無数の触手が蠢いている。裂けた口から垂れた蔦状の舌が床を舐めるたび、黒い泥が滴り落ちた。
泥は床へ広がり、そこから新たな獣が次々と形を取っていく。
赤い双眸が、渚たちを見下ろした。
空気が押し潰される。
デバイスには、《危険度:判定不能》の文字だけが赤く明滅していた。
「ひ、ひい……っ」
坂田の喉から、引きつった声が漏れた。奪った結晶を胸へ抱えたまま、後ずさっている。
「来るな……。俺を誰だと思ってる!」
巨大な異形の口から、蔦の舌が走った。それは素早い速さで坂田の胴へ巻きつき、一息に宙へ吊り上げる。
「やめろ! 放せ! 助けろ、俺を助けろぉっ!」
坂田は必死に身をよじり、手にした異能石を振りかざした。けれど、命令は異形には届かなかった。
弱い者の恐怖を利用してきた声は、圧倒的な怪物を前に、ただの悲鳴へ変わっていた。
異形が低く咆哮する。坂田の身体は蔦に絡め取られたまま、闇の奥へ引きずられていった。
悲鳴が遠ざかり――やがて、ぷつりと途切れた。
「は、はんちょ……」
矢羽が呆然と呟く。次は、自分たちだ。その思考をなぞるように、小型の獣たちが一斉に渚たちのほうを向いた。
――ぎいぃぃ。
「扉が!」
掛原の叫びに、和久田が振り返った。
「古藤、押さえろ!」
古藤が駆け寄り、硬質化させた両腕を扉へ突き立てる。掛原も肩を押しつけたが、扉は二人を押し返しながら、なおも隙間を狭めていく。
「止まらない!」
背後から、小型の獣たちが波のように押し寄せてくる。矢羽が銃で援護しながら叫んだ。
「副班長! 渚ちゃん、早く!」
「くそっ……!」
和久田は負傷したゆかりを背負い、扉へ向かって走った。残された隙間は、人ひとりがようやく通れるほどしかない。
「椎野! 急げ!」
掛原が腕を伸ばす。古藤も矢羽も必死な形相で、渚たちの援護をした。あと少し。渚がそう思った瞬間、背後で和久田がよろめいた。
「うっ……!」
背負われたゆかりの身体がずれ、和久田が足を止める。その一瞬を狙い、獣たちが飛びかかった。
「危ない!」
渚は咄嗟に和久田の腕を掴み、考えるより先に彼らの体と自分の体を入れ替えた。勢いのまま二人を扉の外へ突き飛ばし、自分の身体をその位置に滑り込ませた。
なぜ、そんなことをしたのかは分からなかった。
身体が勝手に動いていた。
目の前には、涎に濡れた牙が迫っている。渚は短剣を構えた。次の瞬間、ガッ、と強い衝撃を受ける。
受け身も取れず、衝撃を逃せなかった。
骨が軋む音が身体の内側で鳴る。感覚が腕から抜け落ち、渚の身体は勢いよく壁に叩きつけられた。
「ぐっ……、かっ、あ、うっ……!」
肺の空気が押し出される。視界が白く弾け、耳鳴りがすべての音を遠ざけた。
「椎野さん!」
扉の向こうに、和久田とゆかりが倒れ込んでいるのが見えた。
二人とも外へ出られた。
そのことに、ほんの一瞬だけ安堵する。
「早く、戻って!」
矢羽の声が響いた。
「くそぉっ! 閉じ、るな……っ!」
古藤と掛原が必死に扉を押さえつけているが、重たい扉は容赦なく閉じ続け、問答無用で隙間をかき消していく。
扉の外に投げ出された和久田が踵を返し、中へ飛び込もうとした。
「椎野さん、手を!」
重たい扉は動きを止めず、じわじわと隙間を奪った。和久田は外側から結界を差し込み、扉を押し止めようとする。力外側から結界を差し込み、扉を押し止めようとする。
光の壁は一瞬だけ広がり、すぐに砕けた。隙間が、人ひとり分から、肩幅ほどへ。さらに、腕一本ほどへ狭まっていく。
渚は立ち上がろうとした。腕に力が入らない。脚も震え、壁から身体を離すことすらできなかった。
「待って……」
声が掠れた。
「まだ、私……中に……!」
扉の向こうで、和久田が何かを叫んでいる。その声は石の軋みに掻き消され、最後に見えたのは、こちらへ伸ばされた手だった。
重い音とともに、扉が閉じた。
光が消える。
渚は一人、弧洞の奥に取り残された。




