3-7:ERROR
坂田の指先が、赤黒い結晶に触れた。
「待っ……!」
声が届くより早く、結晶が柱から引き抜かれる。
まず、赤紫の光が床を駆け抜けた。
黒い柱の根元から円環状に広がり、渚たちの足元を越え、壁際に群生する花々へ流れ込んでいく。
乳白色の花弁が一斉に萎びれた。茎が折れ、乾いた葉が灰のように崩れ落ちる。洞内を満たしていた甘い香りは消え、代わりに濃い鉄の匂いが肺へ入り込んだ。
次いで、低いうなり声が響いた。
どこから、と考えて、渚はすぐに違うと気づく。奥から聞こえているのではない。洞窟全体が鳴っている。まるで生き物の腹の中にいるような震えが、靴底から背骨へ這い上がった。
手首のデバイスが、音もなく激しく振動した。
「これ……赤い、けど……」
《異形反応検知》
《E-Index:142……176……180》
数値は瞬く間に上昇し、最大値の二百を振り切った。表示が乱れ、画面いっぱいに《ERROR》の文字が浮かぶ。警告音は消えたが、赤い光だけが手首の上で明滅していた。
「うそっ、計測不能……?」
渚が顔を上げると、ゆかりが困惑した表情でデバイスを見つめていた。
《E-Index:計測不能》
《危険度:判定不能》
「班長、撤退しましょう!」
和久田が叫んだ。
「対処できる状態じゃありません!」
そのとき、枯れた花の根元が弾けた。
黒い泥のようなものが床へ溢れ出し、蠢きながら四肢を伸ばしていく。
狼に似た獣だった。
一体ではない。二体、三体。花の残骸を押し分けるように、黒い獣が次々と生まれていく。濁った咆哮が、巨大な空間に反響した。
「くっ、下がれ……!」
和久田が前に出て手をかざす。光の粒子が空中に散り、《結界具現化》の輪郭を作り始めた。
だが、結界が形を成すより早く、獣の一体が床を蹴った。狙われたのは、ゆかりだった。
「ひっ!」
「御幡さんっ!」
牙が肩口へ食い込み、ゆかりの悲鳴が弾けた。
渚が駆け寄ろうとしたその時、目の前で、坂田がゆかりを獣のほうへ突き飛ばした。
「《囮になれ》! 《時間を稼げ》!」
渚の頭が、何かの力に抗えず、一瞬で真っ白になった。
掛原も古藤も息を呑み、矢羽が短く悲鳴を漏らす。
誰も坂田に言い返せない。命令に逆らえば、次に囮にされるのは自分かもしれない。全員が、それを知っている。
「やめろ!」
和久田だけが、ゆかりの前へ飛び込んだ。
未完成の結界を無理やり押し広げ、振り下ろされた爪を受け止める。
「みんな下がれ! 入口へ!」
和久田の声で、ようやく渚の足が動いた。
ゆかりは肩から血を流しながら、必死に立ち上がろうとしている。渚はその腕に手を伸ばした。
「動かないでください!」
「だい、じょうぶ……まだ、動ける」
大丈夫であるはずがなかった。それでも、ゆかりの目はまだ折れていない色をたずさえている。
矢羽が銃を構えた。連続して放たれた弾丸が、《加速》の能力を受けて空気を裂くと、黒い獣の身体を貫いた。
だが、獣の数は減らなかった。枯れた花の根元から黒い獣がなおも湧き出してくる。そのうちの一体が身を翻し、渚へ向かって跳んだ。
「ひっ……!」
渚は後ずさった。足がもつれ、倒れそうになりながら、腰の短剣を抜く。
握り方は分かる。けれど、戦い方が分からない。震える手で振るった刃は、獣の横を空しく切った。爪が肩を裂く。熱い痛みが走った。衝撃で指の力が抜け、短剣が床に落ちた。
武器を失ったことを理解するより早く、恐怖が身体を動かした。黒い影が迫る。
渚は反射的に拳銃を抜き、引き金を引いた。
銃声が弾ける。
反動で腕が跳ね上がり、弾丸は獣を外れて岩壁を砕いた。
「あ、あたら、ない!」
乾いた銃声が洞窟に反響した。破裂音に耳が痛む。固定できていなかった腕が、反動で跳ね上がった。弾丸は獣を外れ、壁の岩を砕いた。
もう避けきれない。目をつぶりかけると、掌にじんと痺れを感じる。次の瞬間、手のひらから液体が滲んでいた。
細かった流れは、恐怖に引きずられるように勢いを増し、獣の顔面を打ち抜いた。
黒い身体が弾き飛ばされ、床を転がった。
「な、に……?」
自分の力だと理解するまで、一拍遅れた。能力。――椎野渚の界律能力だ。
「そっか、……っ!」
息をつく暇もなく、別の獣が低く身を沈めて跳んでくる。
渚は反射的に掌を突き出した。喉が焼けつくように乾くが、同時に、手のひらからまた液体が湧き上がった。
今度は水ではなかった。わずかな甘みと塩気を含んだ、粘りのある液体だった。それは獣の口元へまとわりつき、鼻と喉を塞いだ。
「来ないで……っ!」
黒い獣が床へ倒れ、苦しげに身体を捩った。
声は震えていた。それでも渚は、掌を下ろさなかった。




