3-5:不安
目を再び開くと、そこは暗闇だった。
粘つくような空気がねっとりと漂い、赤黒い光が洞窟の壁をぼんやり照らしている。岩肌は血管のように脈打ち、鈍い鼓動が耳の奥を叩いた。
渚は思わず喉をこくりと鳴らした。
忌まわしき天災の穴、『弧洞』。
『ろく』の中では、何度も目にした言葉だった。
けれど、文字から匂いはしない。湿り気も、足元から這い上がる振動も、肺へ入り込む重たい空気もなかった。
目の前にあるものは、読んでいた物語よりも、ずっと生々しかった。
ここへ来て、本当によかったのだろうか。
背負った装備が、急に重く感じられる。腰の短剣へ触れると、柄の冷たさが手袋越しに伝わった。
これは飾りではない。
何かに襲われたとき、自分の命を守るための武器だ。
そう理解した途端、恐怖が遅れて込み上げてきた。
渚はその理由が、自分自身にあると分かった。
《界律者》は、例え等級が低くとも恐怖に対する耐性がある。それは生得的な特性であり、だからこそ《界律者》は危険な天災に立ち向かうことができた。
前を行く隊員たちも、口を閉ざしたまま周囲を警戒している。
先頭の古藤彰が足場を確かめ、その後ろでは矢羽祥子が端末へ目を走らせていた。最後尾の掛原宗太は顔を強張らせながら、何度も背後を振り返っている。
「なぎちゃん、緊張してる?」
「えっ」
隣へ寄ってきたゆかりが、声を潜めた。
「少し……」
「無理しないでね。水は持ってきた?」
「うん。大丈夫」
「しんどくなったら、すぐに言って」
ゆかりは安心させるように笑った。
第四班の中で、ゆかりと和久田だけが渚を気にかけてくれている。その優しさをどう受け止めればいいのか分からず、渚は小さく頷いた。
前方で、和久田が立ち止まった。片膝をつき、脈打つ岩肌へ手を当てる。
「……外で測った反応より弱い。本当に眠っているのかもしれない」
ゆかりも端末を取り出し、洞内へ淡い青い光を走らせた。
「湿度が高い。硫黄も少し出てる。それと、分からない微粒子が多いから、マスクを上げたほうがよさそう」
隊員たちは無言でマスクを調整した。
矢羽は壁から鉱石の欠片を採取すると、腰の小さなケースへ入れる。手のひらほどの大きさしかないのに、欠片は吸い込まれるように消えた。
弧洞の空間歪曲を利用した《拡張ポケット》。それは、手のひらほどのケースだが、中は弧洞由来の小空間につながっているという。
弧洞内部で観測される「局所的な空間歪み現象」を人工的に模倣した技術で、研究部が実用化した携行装備。現実の物理法則をねじ曲げ、内容物を別の小空間に格納する――弧洞から得られた数少ない恩恵のひとつだった。
班員たちの様子を横目に、渚は腕時計型のデバイスをタップした。
淡い青光が走り、透明なウィンドウが目の前に浮かぶ。立ち上がった『フィールド・スキャンモード』は、弧洞の環境や生体反応を即座に解析する機能だ。
『弧洞活性度:低』
『等級推定:C1』
『環境汚染度:中』
『異形反応:なし』
『硫黄濃度:高』
異形反応はない。
危険度も低い。
それなのに、洞内の空気は生き物の腹の中のように重かった。
渚は表示を消し、周囲を見回した。足元近くの壁には黒く乾いた亀裂が走っている。その隙間から、泥のようなものが滲み出ていた。
渚は腰を屈めた。表面には赤い光がぬるく反射している。粘ついて見えるが、岩肌から漏れた水分にも見えた。
手袋をした指先で、ほんの少し掬い上げる。
ぬるり。泥が動いた。指へまとわりつく感触は、液体というより、濡れた舌にゆっくりと舐められたものに近かった。
「うわっ……!」
渚は反射的に手を引いた。




