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1-1:雨の夜

 第一話 『ろく』


· · • • • ✤ • • • · ·


 雨。

 

 風に裂かれた雨粒が、地面を叩きつけていた。砕けた雫が跳ね、黒いアスファルトに瞬きのような輪を刻んでいく。靴はすでに水を吸って重く靴下まで冷たい。踏みしめるたび足元がぐにゃりと揺れ、不快な感触が伝わってくる。


 七月二十日、金曜日。夜の十時。


 アルバイトを終えた渚は、水浸しの道を駆けていた。

 

 突然降り出した夜雨は勢いを増すばかりで、折り畳み傘は、志半ばに役目を終えている。ごうごうと風が唸り、雨粒がザアザアと打ちつけ、並ぶ家々の明かりもまばらに消えていた。


 街灯が不規則に点滅している。いつ闇に沈んでもおかしくない路地には庭木が影を伸ばし、地面に黒い腕を揺らす。

 

 通い慣れた道のはずだった。


 変わりのない道だというのに、今日は、どこか不気味さがまとわりついて離れない。渚は湧き上がる不安を胸の奥に押し込み、雨を切って走り続けた。


 ――びちゃっ。


 何かが地面へ落ちた音が聞こえ、渚は反射的に背後を振り返った。

 

 点滅する街灯の光が水浸しの地面を丸く照らしている。輪の中心には、青色のパスケースが落ちていた。

 

 自分のもの。そう気づいた瞬間、胸がざわっと波立った。


 まるで、罠がスポットライトを浴びているような、嫌な予感がする。

 

 拾うことを躊躇している間にも、パスケースは水浸しになっていく。さらに嫌な気持ちになって、屈んだ渚は手を伸ばした。

 

 その時、何となく。


 渚は路地の右側に視線を向けた。


 ――向けて、しまった。


 そこには、塗りつぶしたような暗闇があった。

 

 その暗闇の奥底から、誰かに覗かれている感覚が背筋を這った。まるっと飲み込まれてしまうような、身の竦む気配。その場から目が離せない。

 

 渚はこくりと喉を鳴らした。パスケースを掴んだ指先に、ぐっと力が入る。

 

 パチ、パチ――パチチ。

 

 頭上の街灯が明滅を繰り返した。


 冷たい雨粒が頬を打ち、襟の中に落ちる。その雨の冷たさが凍った思考を引き戻して、渚は傘を握り直し、かすれた呼吸を小さく吐き出す。

 

(……早く帰らないと)

 

 街灯の輪から出れば、この金縛りの感覚も解けるだろうか。


 恐る恐る足を踏み出した、次の瞬間――強い力で、渚は右腕を後ろに引かれた。


 重心がくずれ、水飛沫を飛ばしながら、たたらを踏んでよろめく。

 

 あ、という声も出なかった。


 視界の端で、落とした傘が跳ねるように地面を転がった。そして気づいたときすでに、渚は強く尻餅をついていた。恐怖と衝撃が全身を硬直させる、立ち上がろうとしたくても、体がまるで動かない。

 

 その視界の端に、黒い靴先が映った。


 ――ボロボロに擦り切れた靴だ。


 渚は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 人影が覆い被さるように立っていた。

 

 黒いパンツ、黒いコートの裾。全身見るからに黒い服装に身を包み、頭にフードを被った――、人。小柄な人だった。男にしては背が低く、細身で、渚と同じくらいの身長だろうか。フードと街灯の逆光で、その顔は見えない。

 

 見るからに不審者だったが、一番不気味なことは、傘を差していないのに、コートにも靴にも水滴一つついていないことだった。

 

「これ」

 

 女とも男ともつかない声だった。意味も分からず渚が呆けていると、眼前に、黒い巾着袋が突き出される。

 

「おねがい。これ、何も言わずにもらって!」

「――え?」

「いいからはやく! 受け取って!」

 

 有無を言わせない勢いで、渚はその人物に巾着を握らされた。巾着は硬く、何か重たいものが入っているようだった。

 

 怖くて、寒くて、恐ろしくて、不気味で。


 声にならないまま、渚はただ呆然と巾着を受け取っていた。その人物は転がった傘も拾い上ると、慌ただしく、渚の身体に押し付けた。

 

「ぜったいに変えてね、『――――』」

「ちょ、ちょっと、――!」

 

 雨の音が言葉をかき消す。聞き返そうと声を上げると、雨粒が渚の瞳を濡らした。痛みに目を閉じたその直後、謎の人物は、とうに目の前から消えていた。

 

 残されていたのは、真っ暗な道を押し流す雨粒と、丸く地面を照らす街灯の光だった。


 ――ハッとした時、渚は自分のアパートの玄関に立っていた。


 全身はずぶ濡れのまま、どうやって帰ってきたのか、まるで思い出せない。

 

 身体からぽたぽたとしずくが落ちている。それを目で追い、足元に溜まる水溜まりを見る。

 

 渚の手は、あの黒い巾着を握りしめていた。


 渚は、巾着の口に指をかけて、ゆっくりとその皺をほどいた。その中から現れたのは、黒い表紙の古びた本だった。


 広辞苑と思えるほどの分厚い本。

 

 表紙は煤けて黒ずんでおり、片面には、まるで鋭利な刃物で刻んだような金色の文字が彫られている。

 

 ――『ろく』。

 

 それは雨より冷たく光る、謎の文字だった。

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