1-1:雨の夜
第一話 『ろく』
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雨。
風に裂かれた雨粒が、地面を叩きつけていた。砕けた雫が跳ね、黒いアスファルトに瞬きのような輪を刻んでいく。靴はすでに水を吸って重く靴下まで冷たい。踏みしめるたび足元がぐにゃりと揺れ、不快な感触が伝わってくる。
七月二十日、金曜日。夜の十時。
アルバイトを終えた渚は、水浸しの道を駆けていた。
突然降り出した夜雨は勢いを増すばかりで、折り畳み傘は、志半ばに役目を終えている。ごうごうと風が唸り、雨粒がザアザアと打ちつけ、並ぶ家々の明かりもまばらに消えていた。
街灯が不規則に点滅している。いつ闇に沈んでもおかしくない路地には庭木が影を伸ばし、地面に黒い腕を揺らす。
通い慣れた道のはずだった。
変わりのない道だというのに、今日は、どこか不気味さがまとわりついて離れない。渚は湧き上がる不安を胸の奥に押し込み、雨を切って走り続けた。
――びちゃっ。
何かが地面へ落ちた音が聞こえ、渚は反射的に背後を振り返った。
点滅する街灯の光が水浸しの地面を丸く照らしている。輪の中心には、青色のパスケースが落ちていた。
自分のもの。そう気づいた瞬間、胸がざわっと波立った。
まるで、罠がスポットライトを浴びているような、嫌な予感がする。
拾うことを躊躇している間にも、パスケースは水浸しになっていく。さらに嫌な気持ちになって、屈んだ渚は手を伸ばした。
その時、何となく。
渚は路地の右側に視線を向けた。
――向けて、しまった。
そこには、塗りつぶしたような暗闇があった。
その暗闇の奥底から、誰かに覗かれている感覚が背筋を這った。まるっと飲み込まれてしまうような、身の竦む気配。その場から目が離せない。
渚はこくりと喉を鳴らした。パスケースを掴んだ指先に、ぐっと力が入る。
パチ、パチ――パチチ。
頭上の街灯が明滅を繰り返した。
冷たい雨粒が頬を打ち、襟の中に落ちる。その雨の冷たさが凍った思考を引き戻して、渚は傘を握り直し、かすれた呼吸を小さく吐き出す。
(……早く帰らないと)
街灯の輪から出れば、この金縛りの感覚も解けるだろうか。
恐る恐る足を踏み出した、次の瞬間――強い力で、渚は右腕を後ろに引かれた。
重心がくずれ、水飛沫を飛ばしながら、たたらを踏んでよろめく。
あ、という声も出なかった。
視界の端で、落とした傘が跳ねるように地面を転がった。そして気づいたときすでに、渚は強く尻餅をついていた。恐怖と衝撃が全身を硬直させる、立ち上がろうとしたくても、体がまるで動かない。
その視界の端に、黒い靴先が映った。
――ボロボロに擦り切れた靴だ。
渚は、ゆっくりと顔を上げた。
人影が覆い被さるように立っていた。
黒いパンツ、黒いコートの裾。全身見るからに黒い服装に身を包み、頭にフードを被った――、人。小柄な人だった。男にしては背が低く、細身で、渚と同じくらいの身長だろうか。フードと街灯の逆光で、その顔は見えない。
見るからに不審者だったが、一番不気味なことは、傘を差していないのに、コートにも靴にも水滴一つついていないことだった。
「これ」
女とも男ともつかない声だった。意味も分からず渚が呆けていると、眼前に、黒い巾着袋が突き出される。
「おねがい。これ、何も言わずにもらって!」
「――え?」
「いいからはやく! 受け取って!」
有無を言わせない勢いで、渚はその人物に巾着を握らされた。巾着は硬く、何か重たいものが入っているようだった。
怖くて、寒くて、恐ろしくて、不気味で。
声にならないまま、渚はただ呆然と巾着を受け取っていた。その人物は転がった傘も拾い上ると、慌ただしく、渚の身体に押し付けた。
「ぜったいに変えてね、『――――』」
「ちょ、ちょっと、――!」
雨の音が言葉をかき消す。聞き返そうと声を上げると、雨粒が渚の瞳を濡らした。痛みに目を閉じたその直後、謎の人物は、とうに目の前から消えていた。
残されていたのは、真っ暗な道を押し流す雨粒と、丸く地面を照らす街灯の光だった。
――ハッとした時、渚は自分のアパートの玄関に立っていた。
全身はずぶ濡れのまま、どうやって帰ってきたのか、まるで思い出せない。
身体からぽたぽたとしずくが落ちている。それを目で追い、足元に溜まる水溜まりを見る。
渚の手は、あの黒い巾着を握りしめていた。
渚は、巾着の口に指をかけて、ゆっくりとその皺をほどいた。その中から現れたのは、黒い表紙の古びた本だった。
広辞苑と思えるほどの分厚い本。
表紙は煤けて黒ずんでおり、片面には、まるで鋭利な刃物で刻んだような金色の文字が彫られている。
――『ろく』。
それは雨より冷たく光る、謎の文字だった。




