序章:青い瞳
『回帰の果てに逢いましょう』
· · • • • ✤ • • • · ·
かつて静かな住宅街だった場所は、瓦礫の海へ呑み込まれていた。
崩れ落ちた建物の裂け目から火が舌を伸ばし、赤黒い煙が空を覆っている。戦いは終わったはずなのに、街だけがいまだ、その余燼の中へ取り残されていた。
折れ曲がった鉄骨、押し潰された車両、粉々になったガラス。コンクリートの残骸は無秩序に重なり合い、壁だったものも、屋根だったものも、もう見分けがつかない。煤けた色の山がどこまでも続き、街そのものが巨大な死骸となって横たわっているようだった。
風が吹くたび、血と煤の匂いが鼻を刺した。
折れた鉄骨の陰には、異形の骸が幾つも転がっている。泥と肉の境目を失った身体は、ところどころで黒い煙を上げながら崩れ続けていた。
渚にとって、それは何度目にしても慣れることのできない光景だった。
ここは、自分が生きてきた世界ではない。
平穏な日常の延長にある場所でもない。
その事実を、壊れた街並みはいつまでも容赦なく突きつけてくる。
瓦礫の中で、渚は片手を地面へついていた。荒い呼吸をどうにか繋ぎ止めるたび、熱風と砂埃を吸い込んだ肺が焼けるように痛む。
戦いは終わった。
それなのに、身体の内側にはまだ衝撃が残り、心臓も筋肉も、次の攻撃に備えるように強張ったままだった。
「どうして……死んでいないんだ?」
低い声が降ってくる。
顔を上げたその目の前に、一人の青年が立っている。
七瀬玲梓。
氷の縁を思わせるように静かで冷たい金の瞳が、渚を静かに見下ろしている。目を奪われたら凍り付いてしまいそうだが、その顔に見蕩れている余裕はなかった。
今まさに、青年が握る刀が渚に向かって容赦なく振り下ろされようとしていたからだ。
戻ってきたのだと、渚はその瞬間に理解した。確かめたいことはいくつもあったが、そのどれも口にする時間は残されていなかった。
掠れた息が唇から漏れ、喉の奥へ鉄の味が広がった。七瀬から放たれる殺意が、目に見えない重圧となって胸を押し潰してくる。
刀の影が渚の頬へ落ちる。
怖かった。それでも、黙っていれば殺される。渚は息を吸い、落ちてくる刃へ向かって口を開いた。
「ここで私を殺したら――」
刀が風を裂いた。
鋭い音が耳を打ち、冷たい刃が視界を横切る。それでも渚は目を逸らさなかった。
七瀬の瞳に、水縹色が映り込む。燃える金の瞳が、わずかに揺れた。
「――っ!」
振り下ろされた刃は、渚の首へ触れる寸前で止まった。
一拍遅れて、刃先に触れた皮膚が薄く裂ける。生温かい血が首筋を伝い、七瀬の刀を赤く濡らした。
渚は息を止めたまま、七瀬を見上げていた。
殺されたくなかった。
ここで死ぬわけにはいかなかった。
何より、目の前にいる七瀬を、今度こそ助けたい。
それだけを支えに、渚はこの世界で生き続けてきた。
七瀬が自分を異物として排除するのなら、異物ではないと思わせるしかない。あまりにも単純で、方略と呼ぶには頼りない考えだが、今の渚に残されている道はそれしかなかった。
具体的に何を言えばいいのかも、どこまで話すべきなのかも決めていない。
ただ、七瀬の手を止める言葉を、わずかな記憶の中から探し続けてきた。
恐怖で乾いた喉を無理に動かす。唾を飲み込もうとしても、喉の奥が引き攣り、うまく息が通らなかった。
それでも渚は、もう一度息を吸った。
「あなたの回帰は、終わらない」
この世界で回帰を繰り返してきた英雄を、渚はまっすぐに見返した。
刀の切先が、微かに揺れる。
かすかに刃が揺れ、青年の表情に動揺の色が走った。首にか細い痛みがひりつく。世界の音が遠いていく。止まったその時間の中で、凍てつく表情に走る揺らぎを、渚は逃さなかった。
その反応だけで十分だった。
この七瀬は、何度目の七瀬なのだろう。
どの未来を越え、どれほどの死を見て、今ここへ戻ってきたのだろう。
渚は一歩も退かなかった。正確には、退くことができなかった。
ここで視線を逸らせば、七瀬は再び刀を振り下ろすかもしれない。
この一秒で全てが決まる。生きるか、死ぬか。――いや、死ぬ未来は、すでに存在しているのだから。渚がしなければならないのは、すでに書かれた死の結末を、何度でも否定し続けることだった。
次の一手、七瀬がどう動くかによって、渚の未来は数束の可能性に収束する。
後戻りはできなかった。
渚はすでに、運命を変えるための境界線を越えていた。




