3-3:初めての任務
ゆかりは顔を伏せ、和久田も息を殺していた。
低い等級の《界律者》は、高い等級の者に逆らいにくい。
昨夜調べた資料には、《等級差による能力圧》《心理的服従反応》という無機質な言葉が並んでいた。言葉だけなら簡単に理解できるが、実際に浴びるとはわけが違う。
声を聞くだけで膝が強張り、身体のほうが命令に従う理由を探し始める。
それでも、坂田の力は等級差だけでは説明できない気がした。外から重圧を加えるのではなく、相手の内側にある恐怖を探り当て、そこへ指をかけて引きずり出す。
A級だからなのか。
坂田自身の能力なのか。
今はまだ分からない。
ただ一つ確かなのは、人を守るために使われている力ではないということだった。
渚の喉がきゅっと乾く。水筒の重みを思い出して指先が少し動いた。
「任務の目的は調査だ。脅威度と資源分布を確認し、異能石があれば回収する。簡単なことだろう?」
坂田は穏やかな口調で言った。
穏やかな分だけ、底に沈んだ欲がよく見える。けれど、彼が見ているのは隊員の顔ではない。命令すれば動くB級とC級の手足。その程度にしか思っていないのだろう。
胸の奥で反発が膨らむ。
ここで言い返せばいい。
そう思ったとき、隣にいるゆかりの青ざめた横顔が目に入った。
渚が逆らえば、自分だけでは済まない。
そのことを、この身体は知っているらしい。坂田を拒もうとするたび、仲間が巻き込まれる光景を恐れる感情が胸の奥から浮かび上がってくる。
この世界の椎野渚は、ずっと我慢してきたのだ。
他人事みたいに思って、それが他人事ではないことに少し遅れて気づく。渚は息を吸い、強張った肩を無理やり下げた。
「……分かりました。指示に従います」
坂田の口元に、満足げな笑みが浮かんだ。
「なんだ、椎野。今日は素直じゃないか。いい子だ」
大きな手が肩に置かれる。
「お前の水は使い道が多い。今日も頼んだぞ」
水。
その一言で、昨日の渇きが喉の奥へ蘇った。
椎野渚の界律能力は、【特殊液体生成】という。
口にしたことのある液体なら、水でも、弧洞内で採取した特殊液でも、一定量を手のひらから生成できるというものだ。
便利で支援向きな能力だと思われるが、渚の能力はC級に留まる。その理由は、その能力の副作用にあった。
『生成量は本人の体調に依存する。連続使用時、著しい脱水症状を伴う』
坂田は、それを知っている。知った上で椎野渚を使っていたのだろう。この身体の奥に残る記憶が、断片だけを浮かび上がらせる。
喉を焼くような渇き。薬液の苦い匂い。誰かの傷口へ向けて差し出された震える手。限界です、と絞り出した声。それでも続けろ、と淡々と返す男の声。
渚は奥歯を噛みしめた。椎野渚はそういう扱いを受け続けてきたのだ。黙って、耐えて、押し殺して。
――でも、もう違う。
「さあ、行け。俺のために成果を持ってこい」
坂田は上機嫌に隊員たちを見回した。
「C級でも役に立てるところを見せてみろ」
誰も返事をしなかった。
その代わり、隊員たちは無言で装備を取り始めた。防護ベストの留め具と、閉じられるロッカーの音だけが、控え室に重なっていく。
渚も《椎野》と表示されたロッカーを開けた。
ベルトを通し、小型ライトと救急用品を腰へ収め、デバイスとの接続を確かめる。渚の理解を置き去りにして、身体がいつもの支度を終えていく。
ゆかりが一度だけこちらを見て、ほっとしたように目を細めた。
渚は最後に手袋の留め具を引いた。きつすぎず、緩すぎない。その力加減まで身体の内側にきれいに残っている。
たいしたものだ。本人の理解を置き去りにして、身体だけが仕事をしている。その乖離を感じながら、渚は腰のケースに触れた。
最後に、水筒を手に取る。
昨日の渇きは、喉が乾くという程度のものではなかった。身体の内側から、水だけを残らず抜き取られていくような感覚だった。
これだけで足りるのだろうか。
渚は水筒を腰へ固定した。少しずつ。様子を見ながら。そう言い聞かせるように、指先に力を込めた。
支度を終えると、第四班は坂田に続いて控え室を出た。
和久田がその少し後ろを歩き、ゆかりは渚の隣に並んだ。何も言わなかったが、その沈黙は、行きたくないと訴えているようにも聞こえた。
エレベーターの中では、誰も口を開かなかった。
「そう緊張するな」
坂田だけが、場違いに明るい声を出す。
「四十九番は非活性だ。俺に恥をかかせるような真似さえしなければ、無事に帰れる」
渚は表示灯を見つめた。数字が一つずつ下がっていく。
やがてエレベーターの扉が開き、一行は待機場に停められた装甲車へ乗り込んだ。
厚い後部ハッチが閉じ、外の光が細い線となり、消えていった。
車内には金属と革、消毒液の匂いがこもっている。向かいに座ったゆかりは俯き、隣の矢羽も固く手を組んでいた。
床から伝わる重い振動に、渚は腰の水筒を握る。
任務をこなせる自信などなかった。
それでも、怯えた顔で座るゆかりたちを置いて、自分だけ逃げることはできそうにない。




