3-2:命令
やっぱり、と渚は思った。
「すみません。メッセージ……」
「ああ、いいんだ。それより、怪我はもう大丈夫かい?」
和久田の声は穏やかだった。けれど、どこか力がない。
渚は返事をする前に、彼の職員証へ目を向けた。
和久田一利。B級界律者。その名前を見た瞬間、心臓が跳ねた。
『ろく』に登場した人物だ。
渚の記憶にある和久田一利は、《天鳴グループ》に所属するA級界律者だった。陽気で気さくな性格で、誰からも信頼される、チームの潤滑油のような存在。
けれど、目の前の男からは、その面影を見つけられなかった。
目元には疲労が染みつき、笑おうとしても、口元がわずかに動くだけだ。どこかで大切なものを使い果たしてしまったように見える。
なぜ、和久田がDDAにいるのだろう。それに、今はまだB級だ。
「どうかした?」
和久田が眉を寄せた。
「あ、いえ。大丈夫です」
「そうか。なら、よかった」
和久田の声は穏やかだった。けれど、どこか力がない。
渚は返事をする前に、彼の職員証へ目を向けた。
和久田一利。B級界律者。
その名前を見た瞬間、心臓が跳ねた。
『ろく』に登場した人物だ。
渚の記憶にある和久田一利は、《天鳴グループ》に所属するA級界律者だった。陽気で気さくな性格で、誰からも信頼される、チームの潤滑油のような存在。
けれど、目の前の男からは、その面影を見つけられなかった。
目元には疲労が染みつき、笑おうとしても、口元がわずかに動くだけだ。どこかで大切なものを使い果たしてしまったように見える。
なぜ、和久田がDDAにいるのだろう。
それに、今はまだB級だ。
「どうかした?」
和久田が眉を寄せた。
「あ、いえ。大丈夫です」
「そうか。なら、よかった」
安堵したように頷きながら、和久田は装備袋の持ち手を強く握った。
「椎野さん、前と少し雰囲気が違うね」
「そうですか?」
「悪い意味じゃないよ。前より、少し表情が明るい」
渚は咄嗟に頬へ手を当てた。この世界の椎野渚は、どんな顔をしてここにいたのだろう。鏡の中の自分より、もっと暗く、もっと重たい顔をしていたのだろうか。
考えかけて、今しか聞けないことを思い出した。
「和久田さん」
「うん?」
「七瀬玲梓って名前、聞いたことありますか」
和久田は目を瞬いた。
「七瀬?」
「S級の新人とか、最近話題になっている人とか」
「いや……心当たりはないかな」
嘘をついているようには見えない。そのことが、かえって渚の胸に重く落ちた。こつん、と小石を投げつけられたように。
まだ覚醒していないのか。それとも、この世界には七瀬玲梓という存在そのものがないのか。考えたくない可能性が、また喉の奥を乾かしていく。
渚は少しだけ下を向いた。
「どうして? 何か調べてるのかい?」
「あ、いえ。聞き覚えがあるか知りたかっただけです」
渚が苦笑すると、和久田はまだ不思議そうにしていたが、それ以上は聞いてこなかった。
渚が曖昧に笑うと、和久田はそれ以上追及しなかった。
「……椎野さん」
声が低くなる。
「副班長なのに、前の任務では何もできなかった。本当にすまなかった」
「あっ、ええと、その……」
渚は言葉に詰まった。謝られても、渚には受け取る理由が分からない。けれど、和久田の目には冗談でも、社交辞令でもない重さがあった。
「気にしないでください」
「そういうわけにはいかないよ」
和久田は小さく首を振った。
「私、前の任務のことをよく覚えていなくて。あのあと、どうなったんですか?」
装備袋の持ち手が、さらに強く握られる。
「任務自体は、成功扱いになっている。ただ、重傷者が多かった。椎野さんもその一人だ」
「ほかの人たちは?」
「復帰しないことになった。辞めた人もいる」
「そう、ですか」
渚が室内を見回したそのとき、控え室の扉が勢いよく開いた。
「和久田ぁ、何をしてる。さっさと準備を済ませろ!」
坂田だった。
「椎野もだ。前のような失態は、二度と許されないと思え」
声を聞いた瞬間、渚の身体が強張った。心臓が、喉のすぐ下まで跳ね上がる。
嫌だと思うより早く、膝も喉も動かなくなる。
身体が成すすべもなく坂田に従おうとしていた。理屈ではどうにもならない恐怖が、坂田の登場と共に肺の奥を押し潰そうとする。渚の意思を置き去りにして硬直していた。
「調査先は第四十九番弧洞。等級C1、現状は非活性だ」
渚のデバイスにも、同じ情報が表示されている。
『対象:第四十九番弧洞』
『等級:C1』
『状態:非活性』
『目的:脅威度調査/資源分布確認/拠点候補地安全確認』
「通常どおり、内部の脅威度と資源分布を確認し、拠点候補地の安全を確保する」
坂田はそこで言葉を切り、薄く笑った。
「ただし、奥まで行け。異能石があれば、目についた分は全部持ち帰れ」
和久田が顔を上げる。
「初期猶予の十五分を超えるのは危険です。それに、所有権が設定される予定なら、異能石の回収は協定違反になります」
坂田の笑みが消えた。
「和久田。A級の俺が命令してるんだぞ」
低い声だった。それだけで、渚のこめかみが脈打った。
「お前たちに、選択肢があると思ってるのか?」
「ですが……」
「黙っていれば、誰にも分からない」
坂田の言葉が耳へ入るたび、胸の奥から恐怖だけが引きずり出されていく。
逆らってはいけない。従わなければならない。そう思わせるのが、坂田の界律能力なのかもしれない。
「お前らの仕事は、敵がいるか確かめることだけじゃない。成果を持って帰ることだ。そんな簡単なこともできないのか?」
ゆかりは顔を伏せ、矢羽は唇を噛んでいる。
和久田だけが坂田を見返していたが、その肩もわずかに震えていた。
「俺だって、お前らが死ぬのは見たくないさ」
坂田は肩をすくめた。
「だが、結果がなければ俺の立場が悪くなる。俺の立場が悪くなれば、お前らも困るだろ。力のないB級やC級を使ってやってるんだ。少しくらい命を張って、成果を持ち帰れ」
その言葉で、渚はようやく理解した。
この班は、弧洞だけを恐れているのではない。坂田に怯えているのだ。
渚は呼吸を整えようとした。けれど、坂田の声が響くたびに、胸の奥に巣食う震えは収まらなかった。
これは、ただの威圧ではない。
坂田の声には、人の恐怖を膨らませ、服従へ変える何かが混じっていた。




