2-10:嫌悪
エレベーターが小さく揺れ、十九階で止まった。
扉の先には、白い廊下が伸びていた。消毒液と乾いた紙の匂い。冷えた空調の風が、制服の袖口から入り込んでくる。
壁の案内板には、《弧洞調査課》の文字と、第一班から第四班へ分かれる矢印が並んでいた。
どちらへ行けばいいのか迷っているうちに、扉が閉まり始める。渚が慌てて廊下へ出ると、奥から歩いてきた女性が足を止めた。
「……なぎちゃん?」
その顔が、すぐに安堵へ崩れる。
「なぎちゃん!」
女性は駆け寄るように距離を詰めた。首元で揺れた職員証に、『御幡ゆかり』とある。昨夜、メッセージを送ってきた相手だった。
「復帰、午後からじゃなかったの?」
「そうだったのね。でも、本当に大丈夫? あんな怪我をしたのに、もう戻ってくるなんて」
ゆかりは渚の顔を確かめるように見つめた。
「平気だよ。昨日、返事できなくてごめん」
「それはいいの。そんなことは」
すぐに否定した声には、心配だけではないものが混じっていた。
「何かあった?」
渚が尋ねると、ゆかりは周囲を窺い、声を落とした。
「なんで今日、復帰するなんて言ったの?」
「どういうこと?」
「今ならまだ帰れるわ。体調が悪いって言えばいい。前の任務のことだってあるし、無理に出る必要なんて――」
「おはよう、御幡隊員」
背後から声がした。
「それから、復帰おめでとう。椎野隊員」
ゆかりの表情が強張った。
背中の内側を、冷たい指で撫でられたような感覚が走る。
振り返ると、廊下の奥に大柄な男が立っていた。皺の寄ったスーツに、丸い顔。口元には笑みがあるのに、目だけが少し遅れて細められる。
御幡の手が、渚の腕から離れた。
「挨拶もできないのか? 俺はお前らの班長だぞ」
ゆるい口調に威圧が混ざっている。御幡は身をすくめるように、頭を下げた。
「お、おはようございます、坂田班長」
「……おはようございます」
渚も続いた。
怯えを見せてはいけない。なぜか、渚の頭の中がそう警鐘を鳴らしている。
坂田と呼ばれた男――坂田泰次。弧洞調査課第四班の班長だ。
「椎野。もう怪我はいいのか?」
坂田は渚の前まで来ると、顔を覗き込んだ。
「せっかく生き残ったんだ。身体は大切にしないとな」
心配する言葉のはずなのに、体調ではなく、使える状態かどうかを確かめられているように聞こえた。
渚の背中に、じわりと汗が滲んだ。嫌悪が湧く。反発も湧く。その一方で、身体は勝手に硬くなっていた。膝も、指先も、喉も、坂田の前で動かせなかった。渚の意思とは裏腹に、身体は重石を載せられたように硬直する。
――怖い。身体が、坂田を怖がっている。
「今日の任務も頼むぞ」
坂田は満足そうに口元を緩めた。
「俺のために、せいぜい役に立ってくれ。C級の落ちこぼれにできるのは、それくらいだからな」
励ますように、渚の肩を軽く叩く。
坂田が立ち去ったあとも、触れられた場所には冷たい感触が残っていた。
「……なぎちゃん、大丈夫? 顔、真っ白よ」
ゆかりの声に、渚はようやく息を吐いた。御幡はひきつった表情で渚を見ていた。
「ゆかり、さん」
「え?」
ゆかりは目を瞬いた。
「どうして、急に『さん』付けなの?」
渚は息を詰めた。それから苦笑いを作った。
「ご、ごめん。前の任務のこともあって、まだちょっと混乱してるみたい」
「そうよね。前の……」
ゆかりは言葉を濁した。
そこには、渚がまだ知らない何かがある。
ゆかりは渚の手を取った。包むような触れ方は優しかったが、指先はひどく冷えていた。震えているのは、渚ではなかった。
「なぎちゃん。無理だけはしないで」
ゆかりは坂田が消えた廊下の先を見た。
「あの人、A級なんだから」
「A級……」
「逆らわないほうがいい。言うことは、聞いたほうがいいから」
言い聞かせているのが渚に対してなのか、自分に対してなのかは分からなかった。
ゆかりの手は、いつまでも渚の手を離さなかった。




