2-9:スローモーション
渚の視界の端で、何かがずれた。
ロビーのざわめきが一枚遠ざかり、エレベーターの到着音も、人々の足音も、薄い膜の向こうへ沈んでいく。
ユノが半歩下がった。
その背後で、紙カップを持った職員がよろめく。蓋が外れ、茶色い液体が弧を描いて、ユノの背中へ降りかかった――。
「あっ、——?」
声を上げた瞬間、光景が消えた。
ユノはまだ動いていない。
職員の手にあるカップも傾いておらず、蓋も外れていなかった。
何、今の。渚の呼吸が止まった。分からない。分からないのに、身体だけが先に理解していた。
「えっ」
だが、目の前で同じ光景を繰り返すように、あのカップが傾いた。蓋が飛び。熱いコーヒーが、ユノへ――。
来る——そう思ったときには、もう渚の身体は動いていた。
渚は人垣の隙間へ踏み込み、ユノの腕を掴んでこちらへ引いた。
「ちょっと、何!」
「あ、えっ」
低い声に凍りつく。背後で紙カップが傾いた。プラスチックの蓋が跳ね、茶色い液体が空中へ散る。
けれど、飛沫はユノへ届かなかった。
湯気を含んだ雫が、細かなガラス片のように宙で止まっている。甘く焦げた匂いだけが、遅れて鼻先へ届いた。
「あんたに助けてもらわなくても、自分で避けられるんだけど」
ユノが呆れたように息を吐く。
その途端、止まっていた飛沫が逆向きに動いた。
茶色い雫は細い筋となってカップへ戻り、跳ねた蓋も元の位置へ収まる。カップを持った職員だけが、何が起きたのか分からない顔で立ち尽くしていた。
「あ、ご——、ごめんなさい」
渚は慌てて手を離した。ユノは掴まれていた腕へ目を落とし、それから渚を見た。
「こんなものも避けられないと思われたなら、心外なんだけど」
「そういうつもりじゃ……」
「だったら、さっさと仕事へ行けば? 調四さん」
調四。
受付で聞いた噂が、胸の内に引っかかる。
「おい、莉佳子。言いすぎだ」
茶髪の男が近づいてくる。ユノは苛立ちを隠そうとも、振り返りもしなかった。
「あんたたちみたいな人、珍しくないの。遠くから見て騒いで、勝手に近づいてきて、勝手に何かした気になって。ほんと迷惑」
空気が沈んだ。渚の肩へ、見えないけれど確実にある重みがのしかかる。足裏が床へ縫いつけられたように動かない。
周囲の職員たちも青ざめ、息を潜めていた。
S級。
その言葉が、記憶の底から浮かび上がる。
界律能力には等級がある。C級、B級、A級。そして、その上に立つS級だ。
弱い《界律者》は、上位者の威圧に抗えない。
そしてこの世界では、S級には、二通りの存在があった。
最初からS級になることが確定し、身体的な強さゆえに先天的に周囲に対して威圧感や忌避感を与えてしまう『生来型のS級』。そして、境遇や条件によってS級へと能力を進化させる『進化型のS級』。
ユノの放つ威圧は、生来型のS級特有のもの――生まれながらの重圧そのものだ。
怖い。
身体は逃げろと訴えている。
それなのに、胸の奥では別の感情が熱を持っていた。
怖いのに、腹が立っていた。
「ごめんなさい」
渚はもう一度言った。ユノの眉が、わずかに動く。
「でも、私はたまたま居合わせただけです。見ていたのは失礼だったかもしれません。でも、そんな言い方をされるほどのことじゃないと思います」
「は……?」
ユノはぽかんとしていた。弱いはずのものに噛みつかれたような顔だった。
茶髪の男も、灰色のスーツの男も黙っていた。周囲から音が消えたように感じる。
遅れて、自分が何を言ったのかが全身へ返ってきた。
やってしまった。
「ご、ごめんなさい!」
渚は反射的に頭を下げ、逃げるようにエレベーターへ駆け込んだ。
茶髪の男も、灰色のスーツの男も黙っていた。周囲から音が消えたように感じる。
遅れて、自分が何を言ったのかが全身へ返ってきた。
やってしまった。
「ご、ごめんなさい!」
渚は反射的に頭を下げ、そのまま開いていたエレベーターへ駆け込んだ。
扉が閉じる直前、灰色のスーツの男と目が合う。
男は面白そうに笑い、ひらりと手を振った。唇が、またね、と動く。
扉が閉まり、ロビーのざわめきが切り離される。渚は壁へ背中を預け、震える指で十九階のボタンを押した。
淡い光が灯り、エレベーターが静かに上昇を始める。
「ユノ……」
声に出した途端、記憶が繋がった。
由乃莉佳子。
《天鳴グループ》に所属するS級の《界律者》。七瀬玲梓の部下であり、『ろく』の主要人物の一人。
渚は乾いた笑いを漏らした。
「決まった……。ここ、絶対に『ろく』だ」
物語の登場人物が、本当に目の前にいた。
その奇妙な高揚と恐怖が、胸の中でぶつかり合う。
そして、この世界がいずれ滅びへ向かうという事実だけが、遅れて重く沈んできた。
「どうしろっていうの……」
渚は壁にもたれたまま息を吐いた。
頭から離れないのはユノのことだけではない。
コーヒーが零れる前に見えたあの光景は、まるで、ほんの少し先の未来を覗いたようだった。
渚は自分の指先を見下ろす。水を生み出す力だけではないのかもしれない。
その考えが浮かんだ途端、エレベーターの駆動音が、ひどく遠く聞こえた。
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