2-8:エレベーター前
受付の女性は笑顔を崩さなかった。
何言ってんの、と副音声が付いて聞こえてくる。渚は頬をかいて、乾いた笑みを浮かべることしかできなかった。
「調査課第四班でしたら、十九階です」
「ありがとうございます。でも、どうして……」
「職員証に黄色の線が四本ありますから」
返されたカードを見ると、顔写真の下に細い黄色の線が四本入っていた。
知らないことが一つ増えるたび、自分が椎野渚ではないと突きつけられる。
受付を離れたところで、背後から抑えた声が聞こえた。
「ね、もしかしてだけどさぁ。調四って、この前ヤバかったってところ? 被害すごかったって」
「うーん、あの噂通りならそうねぇ……。記憶、飛んでるのかしら?」
「それって大丈夫なの?」
「さあ……。でも、復帰許可は出ているんでしょう」
渚は足を止めなかった。
第四班で何があったのか聞き返したい気持ちはあったが、振り向けば、自分が聞いていたと知られてしまう。
十九階。弧洞調査課第四班。胸の内で繰り返しながら、エレベーターホールへ向かった。
だが、その前には、人だかりができていた。エレベーターを待っているのではない。黒い制服の職員たちは、少し離れた場所に立つ二人の男を遠巻きに見つめている。
一人は暗い茶髪で黒いスーツ。もう一人は明るいブルーアッシュの髪で、灰色のスーツ姿だ。二人とも特務機関の制服ではないが、その場にいる誰よりも目立っていた。
顔立ちも整っているが、それ以上に目を引いたのは、二人の周囲だけ空気が薄く張っているように見えることだった。近づきたがっているのに、最後の数歩を踏み込めない。憧れと緊張が混じったざわめきが渦巻いている。
「なんであの人たちがここにいるの?」
「本物、初めて見た……」
「今、白緑組合のマスターと、《天鳴グループ》の川藤さんが来てるって」
天鳴グループ——その名前が聞こえてきて、渚は顔を上げた。
『ろく』の七瀬玲梓が所属していた組織だ。
昨日いくら調べても七瀬には辿り着けなかった。けれど、天鳴の人間なら何かを知っているかもしれない。
話を聞けないだろうか。
そう思ったものの、すぐに無理だと分かった。二人の周囲には人の輪があり、職員たちは近づきたそうにしながらも、一定の距離を空けている。
そもそも、何と尋ねればいいのかも分からない。
「すっごいオーラ……」
「ねえねえ、ちょっと話しかけてみない?」
渚が人垣の後ろから様子を窺っていると、灰色のスーツの男がこちらを見た。
目が合った。男は端正な顔をわずかに緩め、片手を上げた。まるで知り合いを見つけたような仕草だった。
渚は周囲を見回した。自分の後ろには、誰もいない。
「ちょっと! ジャマなんだけど!」
鋭い声が、人垣を切り裂いた。
振り返ると、桃色の髪を二本の三つ編みにした少女が立っていた。小柄な身体に似合わず、冷たい目が周囲を見渡している。
「ここ、通路。見物する場所じゃないって分かんない?」
反論する者はいない。言葉は辛辣だったが言っていることは正しい。エレベーター前を塞いでいるのは、集まった職員たちのほうだ。
「ユ、ユノだ……」
誰かが小さく呟いた。
ユノと呼ばれた少女は、ふんと鼻を鳴らし、腕を組む。顎を少し上げるだけで、周囲の空気が引き締まった。
冷気ではない。けれど、肩へ見えない重みを乗せられたように、渚の身体が勝手に強張った。真正面から視線を向けられた職員たちが、青ざめながら道を空けていく。
「せんぱーい。そんなところにいるから、迷惑な人たちが集まるんじゃん。早く行きましょうよ」
「おいおい。遅れたのはそっちだろ」
茶髪の男が呆れたように返した。
「だからって、入口で待たなくてもよくない?」
「はいはい。それより、その威圧感を引っ込めろ。迷惑だ」
「えー。弱いのが悪いのに」
ユノが片手を振った。
途端に、張り詰めていた空気がほどける。
職員たちは堰を切ったように動き出し、まだ残っていた者も、ユノの視線を避けるように散っていった。
「ほら。さっさと仕事に戻りなよ」
渚もその流れに紛れ、エレベーターへ向かおうとした。
そのとき、灰色のスーツの男ともう一度目が合った。今度は間違いない。男は渚を見て、笑っていた。
――その時だった。




