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2-6:特務機関

 翌朝、渚はアラームが鳴る前に目を覚ました。


 枕元の時計は六時十五分を指している。


 布団は柔らかかった。それなのに少しも身体に馴染まず、眠ったというより、目を閉じたまま朝が来るのを待っていたような気がした。


 階下へ下りると、東の窓から差し込む光が、食器棚のガラスを白く照らしていた。台所では、みつえが味噌汁の鍋を覗き込んでいる。


「おはよう、渚。早いのね」


「うん」


 返事をしながら洗面所へ向かい、顔を洗う。そのまま食器棚を開け、三人分の茶碗と箸を並べた。


 どこに何が入っているのか、考える必要はなかった。


 手が迷わず引き出しを選び、いつも置いていたらしい場所へ食器を並べていく。昨日より家に馴染んだのではない。身体のほうが、この家を覚えているのだ。


 この世界で暮らしていた椎野渚の習慣を、後から来た自分が借りている。その事実に気づくたび、滑らかだった動作が急に気味の悪いものへ変わった。


 朝食のあいだ、特務機関の話は出なかった。


 みつえも豊も、渚が今日から復帰することを知っている。それでも、テレビから流れるニュースと食器の音だけが、三人のあいだを埋めていた。


 触れれば壊れるものを、そろって避けているようだった。


 食事を終え、部屋へ戻る。


 クローゼットの中には、黒い制服が一着だけ、ほかの衣服から切り離されたようにかかっていた。


 特務機関DDAの制服だ。


 黒地に銀の線が入り、スーツにも軍服にも見える。細身の上着の袖口には、DDAの小さな紋章が縫い込まれていた。


 袖を通し、姿見の前に立つ。


 制服は、鏡の中の椎野渚によく似合っていた。


 引き締まった手足。無駄のない身体。上着の下には、渚の知らない時間をかけて作られた筋肉がある。


 任務に出るために鍛え、怪我をし、それでも戻ることを選んできた身体なのだろう。


 自分の顔をしているのに、自分ではない。


 制服だけではなかった。この手も、脚も、朝の食卓も、すべてが一時的に渡された借り物のように思える。


 昨夜、眠れないまま調べた情報が頭をよぎった。


 天災対策特務機関、通称《DDA》。


 それは、弧洞の監視と管理、発生直後の内部調査を担う組織で、椎野渚は作戦局弧洞調査課第四班に所属している。


 弧洞は発生からおよそ十五分で入口が封鎖される。その前に内部へ入り、怪物や環境を確認し、危険度を判定する。それが調査課の任務だった。


 第四班が担当するのは、比較的危険度の低いCランク以下。資料には安定していると書かれていたが、安全とはどこにも書かれていなかった。


 鏡の中の渚が、硬い顔でこちらを見返している。この身体の本来の持ち主は、どこへ行ったのだろう。朝になっても、その疑問だけは少しも薄れていなかった。


「……行こ」


 玄関では、みつえが水筒を差し出してきた。


「これ、持っていきなさい。昨日、ずいぶん水を飲んでいたでしょう」


「あ……ありがとう」


 受け取ると、掌にずしりと重みが乗った。金属の表面は冷たく、蓋のあたりから、かすかに水道水の匂いがする。


 それだけで、喉の奥に残っていた渇きが薄く蘇った。


 豊は靴べらを持ったまま、何かを言いかけた。一度口を閉じ、それから短く告げる。


「無理はするな」


「頑張ってね。でも、怪我はしないように」


 みつえの声は温かかった。


 その温かさを、渚はどう受け取ればいいのか分からない。胸の奥にある、これまで誰にも触れられなかった場所を、そっと押されているようだった。


 自分にも親がいたなら、こんなふうに送り出してくれたのだろうか。


 考えた途端、うまく笑えなくなった。


「いってきます」


 玄関を出ると、朝の空気が頬に冷たかった。


 駅までの道も、乗る電車も、身体が覚えていた。


 昨夜地図で確認したはずなのに、曲がり角へ来れば足が先に向きを変え、ホームへ着けば迷わず乗車位置を選ぶ。


 DDA本部は、虎ノ門一帯を拡張した再開発区域にある。自宅から電車で三十分、駅から歩いて五分ほどだった。


 吊り革のそばに立ち、渚は腕に巻かれたデバイスへ目を落とした。


 黒い画面を指でなぞる。


 手首の上に光が灯り、そのまま薄い板のように空中へ広がった。透明な画面の中へ、文字とアイコンが滑り込んでくる。


「わっ……」


 渚は小さく声を漏らした。周囲の乗客は誰も気に留めない。向かいに座る女性も、扉のそばに立つ青年も、同じように手首の上で指を動かしている。


 渚の前にだけ、淡い光が浮かんでいる。周囲の人には見えていなかった。


 指で触れるたび、画面が水面のように揺れた。重なった文字がほどけ、空中で新しい形に組み替わっていく。

 

 ガタン、と電車が揺れる。よろけた拍子に、指先が水色のアイコンへ触れた。その拍子にメッセージアプリが開いてしまう。


 そこには、この世界の椎野渚が残した職務連絡や、人間関係の痕跡が詰まっている。


 渚は一瞬ためらい、それから画面へ指を伸ばした。


 一件の未読通知が、淡く光っていた。


【from ゆかり】

 明日、ほんとに復帰するの?

 ほんとに大丈夫?


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