2-5:自分の役割
渚は濡れた手を見下ろした。
先ほど現れた水は、間違いなく、この手から生まれたものだった。
あり得ない。
そう思っているのに、指先だけは別の答えを知っている。
どう意識を集めれば水が生まれるのか。どこへ力を流し、どのように形を留めればいいのか。それを最初から知っていたように、身体は迷わず動いた。
理解できないのは、渚の思考だけだった。まるで頭の中で乾いた歯車が噛み合わないまま回っているみたいに。
しばらくして、渚は洗面台の縁へ手をかけた。力の入らない足を引き寄せ、壁に身体を預けながら立ち上がる。
部屋へ戻ると、窓の外には先ほどと変わらない街が広がっていた。
巨大なスクリーンに、炎をまとい、空を駆ける男。その背後で弾ける赤い熱波。空中で炭酸飲料を飲み干してみせる、派手すぎる広告。
あれは、CGではない。
映像を見上げていた人々は誰ひとり驚いていなかった。空を飛ぶ男も、その身を包む炎も、初めからこの世界にあるものとして受け入れていた。
「私……どこにいるの……」
そのとき、母親の言葉が頭の奥で蘇った。
――C級の界律能力なんだから。
渚はもう一度、自分の手を見た。
天災。
特務機関。
DDA。
《天鳴グループ》。
界律能力。
端末で調べた記事も、ニュースも、街頭広告も、通行人の会話も、すべてが同じ結論を指し示している。
「『ろく』……」
その題名を口にした途端、背筋を冷たいものが走った。
ここは、自分が読んでいた物語の世界なのではないか。
そう考えれば、あまりにも多くのことに説明がついてしまう。
けれど、それならば、この身体は何なのだろう。
この世界にも、椎野渚がいた。父親と母親がいて、C級の界律能力を持つ少女。 渚の知らない人生を、この世界では最初から生きてきた人間。
自分とよく似た人間が存在する別の世界へ来てしまったのだろうか。パラレルワールドという言葉が脳裏をよぎったものの、確かめる手段は思いつかない。
「ななせ……。そうだ、七瀬玲梓」
無意識のうちに、その名前が口からこぼれた。
『ろく』の主人公、七瀬玲梓。日本最強と呼ばれる、S級の《界律者》。強大な能力を持ち、幾つもの天災を鎮めてきた青年の名前。
けれど、渚が覚えている最も重要なことは、彼の強さではなかった。
七瀬玲梓は、回帰者だ。死ぬたびに時間を巻き戻し、同じ絶望の中で何度も戦い続けていた。
七瀬を見つければ、今が物語のどの時点なのか分かるかもしれない。彼ならば、この世界について何か知っている可能性もある。
渚は机へ駆け寄り、パソコンを立ち上げた。液晶にはまだ熱が残っている。指先へ触れるキーの硬さだけが、妙に現実的だった。
検索欄へ、七瀬玲梓、と打ち込む。だが、該当する人物は表示されなかった。
「……え?」
一瞬、変換を間違えたのかと思った。
渚は文字を消し、もう一度、慎重に入力する。
七瀬玲梓 界律者。
検索結果には、同じ名字を持つ研究者や、別の界律者の記事ばかりが並んだ。
七瀬玲梓 S級。
七瀬玲梓 天災。
七瀬玲梓 弧洞。
語句を変えても、渚が探している人物には辿り着かない。
日本最強と呼ばれ、数多くの作戦で名を知られていたはずの人間が、初めから存在しなかったように検索結果から抜け落ちている。
「な、なんで……」
心臓が早鐘を打った。渚は記憶の中から、七瀬に関する情報を引きずり出す。
彼は《天鳴グループ》に所属していた。日本に五つある巨大組織のひとつだ。国家の特務機関よりも前線に近く、S級やA級の《界律者》を複数抱えていた。
「えっと……」
名前が喉元まで出かかっているのに、なかなか形にならない。
焦りながら検索結果を眺めていると、画面の上部に表示された文字が目に留まった。
「……《天鳴グループ》」
これだ。渚はその名を検索欄へ打ち込んだ。今度は、すぐに公式サイトが表示された。
『天鳴グループ公式サイト』
『日本五大天災対策組織の一角として、弧洞災害への前線対応および界律者支援を行う民間組織』
見覚えのある設定が、企業案内のような簡潔な文章で記されている。
渚は息を呑み、所属界律者一覧を開いた。
画面には、S級やA級の《界律者》が顔写真とともに並んでいた。それぞれの欄には、階級、所属班、主な作戦履歴まで掲載されている。
渚は上から順に名前を追った。
いない。
ページ内検索へ七瀬玲梓と入力する。
該当なし。
所属者一覧にも、過去の所属者にも、マスターの記録にもない。関連ニュースや公開されている作戦報告を探しても、七瀬玲梓という名前は一度も現れなかった。
「まだ覚醒してないの……? それとも、表に出てないだけ……?」
七瀬が高校生の頃に覚醒したことは覚えている。けれど、それが物語の何年前だったのかまでは思い出せない。
まだ界律者になっていないのかもしれない。覚醒していても、秘匿任務に就いているため、一般には名前が出ていないのだろうか。考えるほど、幾つもの可能性が生まれた。そのどれも否定できず、焦りだけが喉の奥へ溜まっていく。
渚は次に、DDAの公式サイトを開いた。
国内最大の天災対策特務機関であり、界律者の登録と管理、弧洞への対応を担う国家組織だ。
検索結果に表示された説明文を読み飛ばし、渚は公開隊員情報のページへ進んだ。
『特務機関・隊員一覧』
その文字を見た瞬間、胸の奥で嫌な予感がした。自分でも理由の分からないまま、渚は画面を下へスクロールしていく。
七瀬の名はなかった。作戦局にも、対策局にも、研究局にもない。
やはり、天鳴にもDDAにも、どこにもいない。落胆しながら指を動かしていた、そのときだった。
見覚えのある文字が、画面の端を通り過ぎた。
渚は慌ててスクロールを戻す。
『作戦局 弧洞調査課第四班』
その下に、一人の隊員情報が表示されていた。
『一般隊員 椎野渚』
指が止まった。
「……え?」
そこには、自分の顔写真があった。
鏡で見たばかりの顔であり、肩まで伸びた髪も、目元の形も、間違えようがない。
階級欄には、一般隊員。能力区分には、C級界律者。所属には、天災対策特務機関DDAと記されている。
「え、えっ……?」
渚は椅子を引いて立ち上がった。 脚が床を擦り、甲高い音を立てた。
「ちょ、ちょっと待って……。わ、私が、隊員?」
画面の中の椎野渚は、確かに制服を着ていた。正面を向いた顔は少し硬く、慣れない写真撮影を我慢しているようにも見える。暗く陰った表情が、画面の中から渚を見返していた。
自分の顔なのに、自分ではない。
その感覚に、背中が冷えた。
そのとき、机の上で小さな音が鳴った。チ、と金属を弾いたような音がして、置かれていた腕時計型のデバイスが光る。
黒かった画面が白く浮かび上がり、一拍遅れて細かな振動が机へ伝わった。硬い天板にぶつかる、こつ、こつ、という音が、静かな部屋に響く。
渚は動けないまま、表示された通知を見つめた。
『明日:特務機関へ復帰』
喉がひゅっと縮んだ。母親が口にしていた「特別休暇」という言葉の意味が、遅れて追いついてくる。
――C級の命は、砂粒よりも軽い。特務機関では、ことさらに。
『ろく』で読んだ一文が頭の奥に浮かび上がった。七瀬が誰かにそう言われた場面があったはずだ。渚は力が抜けたように、どすんと椅子へ腰を落とした。
「あ……休暇って、これ……終わった……」
そのとき、パソコン画面の右下に表示された日付が目に入った。
2X05年6月13日。
その表示を理解して、渚は息を止めた。『ろく』の物語が始まるのは、2X07年だったからだ。
「……二年前?」
七瀬が時間を巻き戻すきっかけとなったのは、第二次大天災。日本に甚大な被害をもたらし、世界が滅亡への舵を斬った災厄だ。
今はまだ2X05年。――つまり、物語は始まっていないことになる。少なくとも渚が知っる物語よりも前の時間だ。
「大天災が、これから起こるってこと……?」
なぜこの世界で目を覚ましたのか。元の世界へ戻れるのか。柳瀬はどうなったのか。この身体の本来の持ち主は、どこへ行ったのか。
その何ひとつとして分からない。
ただ、このまま物語どおりに進むならば。未来では第二次大天災が発生し、七瀬は仲間を失い、死んで時間を巻き戻し、世界は滅びへ向かうことになる。
「意味わかんない……」
渚は両手で顔を覆った。自分に何ができるのだろう。
七瀬は、きっとこの世界のどこかにいる。
まだ界律能力に覚醒していないのかもしれない。あるいは、すでに《天鳴グループ》へ所属しながら、何らかの理由で名前を伏せられていることも考えられる。
第二次大天災について知るには、七瀬へ辿り着く必要がある。
けれど、その考えに縋ろうとした途端、別の不安が冷たく胸へ差し込んだ。
もし、七瀬がすでに回帰していたら。
『ろく』の七瀬は、ただ優しいだけの英雄ではなかった。
仲間を守るためなら自分の心さえ切り捨て、世界を救うためなら必要なものと不要なものを、怖いほど冷静に選び分ける男だった。
そんな七瀬を前にして、自分は何を話せばいいのだろう。
――あなたの物語を読んだ。あなたが何度も死に、そのたびに時間を巻き戻していることを知っている。二年後には、第二次大天災が起こるかもしれない。
信じてもらえるはずがない。それどころか、七瀬がすでに回帰を重ねているならば、未来を知る人間が突然現れたことを簡単に見過ごすとは思えない。味方だと判断される保証もなかった。
画面の白い光が、渚の顔を冷たく照らしている。
七瀬には会わなければならない。けれどその前に、この世界と椎野渚について知らなければ。
何も分からないまま近づけば、七瀬に辿り着くより先に、自分のほうが疑われてしまう。
渚は乾いた唇を噛んだ。喉の奥には、先ほどの渇きがまだ薄く残っている。
世界の滅亡も、七瀬の回帰も、今の渚には遠すぎた。けれどもまずは明日、何も知らない椎野渚として、特務機関の扉をくぐらなければならない。
始まりは、そこにしかなかった。
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