2-4:浮かんだ水滴
状況を整理し直す必要がある。渚は机に向かって腰を下ろした。
机の上には薄くて軽いノートパソコンが几帳面に置かれていた。大学生だった渚には金銭的な余裕もなく、いつも大学にある共用のパソコンを使っていたというのに、どうやらこの世界の渚はパソコンを所持しているらしい。
パソコンを起動して、ブラウザを開き、検索欄に指を走らせる。
画面に映し出されたのは、知るはずもないニュースや、見慣れない用語だった。
『DDA本部からのお知らせ――発生危険度推定値を更新しました』
『天災から身を守るための鉄則』
『弧洞は何が為に出現するのか――南東京大学教授へのインタビュー全文』
『DDAとは? 国内最大の天災対策特務機関を解説』
『《天鳴グループ》の女傑マスターに迫る! その私生活は!?』
『今期のイケメン《界律者》ランキング――最強の顔面は誰?』
渚は静かにパソコンの蓋を閉じると、椅子を蹴って部屋を飛び出した。
「渚? どうしたの、そんなに慌てて!」
階段を駆け降りると、母親――みつえが驚いた声を上げた。渚は声を振り切り、家を飛び出て、無我夢中で走った。
「はっ、はあっ! はっ、は、はぅっ――!」
息が上がっても、足は止まらなかった。自分が本当に別の世界にいるのだと、じわじわと感じていた不安が、今度は大きな波のように押し寄せてくる。
見知らぬ住宅街を抜け、渚は交差点の前で足を止めた。
高層ビルの一角にある巨大スクリーン上で、炭酸飲料のCMが流れていた。
『新発売は爽快! スカッとレモンジンジャー味!』
炎をまとった男性が空を駆け、赤い熱波を放ちながら豪快に缶を開ける。
『この炭酸、俺の炎より強烈だぜ!』
彼は炎をまとったまま空中で飲み干し、着地すると炎を散らして笑う。画面には「爽快感MAX! スカッとレモンジンジャー味!」の文字が浮かび上がった。
周囲の人々は、それを当たり前の出来事だというように、CMを眺めていた。
「加賀知さん、相変わらず派手だよね。炎より炭酸のほうが強烈ってナニ?」
「ねー、ウケる! でも加賀知さんのあの炎、見るの好き!」
「そういえば、『紅鳶』、今度新しい弧洞の作戦に出るって。ほんとかなあ」
女性たちの会話が渚の横を通り過ぎた。
――C級の界律能力なんだから。
母の声が蘇る。そういえば、と渚はある一文を思い出した。
*
この世界には突如発生した天災に抗うために、選ばれし者が存在する。
世界の法則や秩序に干渉する力、《界律能力》。
「界」は次元や世界を象徴し、「律」はその法則や力を制御することを表す。
全ての人間がその欠片を持つが、その中でも特別な能力に覚醒するものがいる。
そうした者を、《界律者》と呼ぶ。
*
「……界律能力」
人目を避けて細い路地に入り、渚は自分の両手を見つめた。
もしかして――もしかして、自分も。
そう思って、渚は意識を指先へ集中させた。
使いたい。
ただ、それだけを考える。
何をどうすればいいのかは分からない。呼吸の仕方も、力を向ける先も知らないはずなのに、身体の奥には、ずっと前から知っていたような感覚があった。
胸の内に沈んでいた何かが、細い流れとなって腕を伝っていく。
肩から肘へ。肘から手首へ。脈拍に合わせて指先がかすかに痺れ、皮膚の下を冷たいものが這った。
できる。理由もなく、そう思った。渚にも、この力を使うことができる。それは考えというより、身体の奥に刷り込まれた本能だった。
次の瞬間、周囲の空気がひやりと冷えた。
「……っ」
吐いた息が、うっすらと白く霞む。
指先の産毛が逆立ち、その表面に透明な粒が浮かび上がった。汗ではない。小さな水滴が、皮膚の内側から滲み出すように、ひとつ、またひとつと現れていく。
水滴は指の腹を滑り落ちなかった。
爪の先で震えながら留まり、互いに引き寄せられるように集まっていく。細い水の筋が指と指のあいだを渡り、掌の上でひとつの球を形作った。
透明な球体の中で、周囲の景色が上下を逆さまに映している。
渚が息を呑むと、水球もそれに応えるように震えた。
やがて、それは掌からわずかに離れた。重力を忘れたように、ふわりと宙へ浮かび上がる。
「わ……」
声がこぼれた。
水だ。何もない空間から、自分が生み出した水。
わずかな光を取り込みながら、水球は淡くきらめいていた。表面には細かな波紋が生まれ、内側で光が折れるたび、壁や床に揺らめく影が散っていく。
まるで、小さな海を手の上に浮かべているようだった。
胸の奥が高鳴る。怖さよりも先に、きれいだと思った。
奇跡を掬い上げたような感覚に、渚は水球から目を離せなかった。
しかし、その感覚は一瞬で裏返った。
「っ――?」
喉の奥に、鋭い痛みが走った。
息を吸ったはずなのに、空気が肺へ入ってこない。焼けつくような渇きが口内を満たし、舌がざらついた上顎へ貼りついた。
唾を飲み込もうとするが、何もなかった。
一滴も残っていない。
渚は咄嗟に喉を押さえた。皮膚の内側から熱い砂を押し込まれたように、喉がひりついている。
それだけではない。目の奥が急速に乾き、瞬きをするたび、瞼が眼球を擦った。唇の表面が引きつれ、細かな亀裂が走る。指先から始まった痺れは腕を遡り、全身へ広がっていった。
身体の内側で、何かが一斉に引いていく。
血の中から。
筋肉から。
臓腑から。
全身を満たしていた水分が、細い無数の糸となって指先へ吸い上げられていく。
目の前の水球が、わずかに膨らむ。
その変化を見た瞬間、渚は理解した。
水を出せば、そのぶんだけ、渚の中から水が消えるのだ。その事実が、痛みよりも鮮明に頭へ刻み込まれた。
「うぐっ……!」
膝から力が抜け、渚が床へ手をついた途端、宙に浮いていた水球が形を失った。
透明な塊は砕け、無数の雫となって降り注ぐ。床に弾けた水滴が、冷たい音を立てた。
ほんの少し前まで奇跡に見えていたものが、今は、自分の身体から奪われた命の欠片にしか見えなかった。
「ひぃっ、ひ、――はっ、う」
渚はよろめきながら路地を出た。視界の端が滲んで、鼓膜に張られたように音がくぐもる。
身体が叫んでいた。
足りない。足りない。このままじゃ死んでしまう。
来た道を引き返し、交差点を渡り、人の流れにぶつかりながら、五分かけて走ってきた道を無理やり戻る。肺が焼け、足がもつれても、止まれなかった。
「今度はどうしたの?」
玄関を開けるなり声をかけてきたみつえを振り切って、渚は階段を駆け上がった。部屋に飛び込み、なりふり構わずベッド脇に置いてあったペットボトルを掴んだ。
渚は震える手でペットボトルを掴み、キャップを弾くように開けた。口をつけ、ほとんど息も継がずに水を流し込む。
冷たさが舌を濡らし、ひび割れた喉を落ちていった。焼けついていた粘膜が、ほんの一瞬だけ鎮まる。
けれども、足りない。
水は確かに腹へ落ちたはずなのに、身体の奥まで届いてこなかった。乾いた砂へ注いだ端から吸い込まれ、どこかへ消えていく。
「ぷはっ! はっ……は、はぁっ! なんで……!」
息を吸った途端、喉の痛みが蘇った。
空になったペットボトルが、手の中でべこりと潰れる。透明な容器の内側には、わずかな水滴だけが残っていた。渚はそれすら惜しむようにもう一度口をつけたが、舌へ落ちてきたのは一滴だけだった。
まだ足りない。
渇きは喉の奥へ硬い膜のように張りつき、剥がれようとしなかった。唇を舐めても、舌の表面にはざらついた感触しかない。目を閉じれば瞼が眼球に擦れ、息をするたび、乾いた空気が気道を削っていく。
もっと飲まなければ。
その考えに突き動かされ、渚は潰れたペットボトルを床へ落とした。軽い音を立てて転がっていくのも見ず、壁へ手をつきながら廊下の洗面台へ向かう。
足元がふらつく。壁へ手をつきながら辿り着き、震える指で蛇口をひねった。
勢いよく水が流れ出す。
透明な水が白い陶器にぶつかり、細かな飛沫を散らした。その音を聞いただけで、喉の奥がひどく疼いた。
渚は両手を重ね、流れ落ちる水を受け止めた。
掌に溜まるのを待つことさえできず、そのまま口元へ運ぶ。冷たい水が唇へ触れ、指の隙間からこぼれた。顎を伝った雫が首筋を濡らし、服の襟へ染み込んでいく。
もう一度、掬う。
飲み込む。
すぐに手を戻し、また水を受ける。
焦るほど掌はうまく重ならず、せっかく掬った水の半分が指の間から逃げていった。袖口が濡れ、冷たい筋が肘まで流れていく。
それでも構わず、渚は何度も水を口へ運んだ。
一口。
もう一口。
水は確かに喉を通り、腹の中へ落ちていく。
けれど、身体の奥に空いた穴は塞がらなかった。
飲んだ分だけ胃が重くなるのに、唇の内側も、目の奥も、指先も、乾いたままだった。水が身体へ染み渡る前に、どこか底のない場所へ流れ落ちているようだった。
「はっ……っ、はぁ……」
渚は濡れた両手を洗面台へついた。
蛇口から流れ続ける水が、指先にぶつかって形を変え、排水口へ吸い込まれていく。
鏡の中では、青ざめた顔が荒い呼吸を繰り返していた。頬も髪も濡れているのに、喉の奥だけが、まだ焼けるように乾いた。




