【この世の地獄へ】
最初の一枚は毛色が違う。地図だ。国土地理院では受理してくれそうにない代物だが、地図。何やら印が幾つも打たれ、各区間に〝徒歩、鐘半分〟とある。ランドマークらしき挿絵も――
冒険者組合の広い敷地を通り過ぎたところで馬車が停まる。横手に広めの路地があり、その入り口の脇に置かれた卓に武装した四名の男女。煉瓦壁に挟まれた路地の奥には、高さ四、五メートルの門。
「やあ、諸君。旧カセリナへの入国手続きを頼む」
ケヴがリュシナリア語で愛想よく声をかけると、卓の四人のうち、年嵩の女が席を立って歩み寄り、ぞんざいな態度でケヴに片手を差し出す。
「認識票と、受理済みの依頼書」
女が手渡された金属片と紙切れを点検する。
「新人か」厳めしい眼差しがアキラの首輪に向く。「連れが子供の奴隷だけでは馬車を護りきれんぞ、新米冒険者ちゃん」
「心配ご無用。遅れて五人来る」ケヴがさらりと嘘をつく。「日暮れ前に中で合流する予定だ」
「合流してから発つのが無難だよ」
「わたしとこの者は、仲間のための下見役を兼ねていてね」
「好きにするさ」女が認識票と依頼書を返す。「通って良し」
ケヴが礼を言い、手綱を操って馬車を路地に入れる。蹄の音がポクポク反響する。どん詰まりの、開放されている門から覗く風景にアキラは目を凝らす。といっても、遠い山の一部と空しか見えない。
「あの門を一歩抜けたら、モンスターカントリーだ」ケヴが平坦な声で言う。
「なるほど」とアキラ。
「そう気負うなよ、地球人。今の連中、リラックスしてたろ? 中で悪いことが起きていない証拠だ。最初の五キロは、ま、安全だろうよ」
その五キロのあとのことを考えると気が狂いそうになるんだよ、お姉さん。
緊張からくる吐き気と闘うアキラにはお構いなしに、人間の世界と魑魅魍魎の世界とを隔てる境界線がせまってくる。門の傍にも数名の男女が詰め、上の胸壁に立つ物見と大声のロフト語で言葉を交わしている。門番たちは身分証の提示を求めず、馬車を素通りさせる。門をくぐり、煉瓦の短いトンネルを抜ける。
「この世の地獄へようこそ」ケヴがぼそりと言う。
トンネルの暗がりから一転、傾いた陽射しが目を射る。
アキラの両目が忙しく動き、眼下に広がる景色をつぶさに観察する。
一見、のどかだ。
ネットで見た外国の大渓谷を思い起こさせる約五〇メートルの落差にはぞっとさせられるけれど、のどか。下の野原から急斜面のつづら折りまで、仕事帰りとおぼしい完全武装の物々しい連中が途切れ途切れの列をなして歩いているけれど、のどか。
青々とした草原があって、帯状の木立や森があって、湖面がキラキラと陽射しを反射していて、その上を小鳥の群れが旋回していて……
〝この世の地獄〟っぽいところは見当たらない。
むしろ風光明媚とさえ言える。
アキラは約一〇〇〇メートル北の川べりをじっと見る。煉瓦か何かの高い壁がある。矢倉もある。今もそこから人が出て、こちらへ続く列に加わっている。
あれは?
「ケヴさん、あれ、何かわかります?」アキラは指さす。「あの砦っぽいの」
「まさに砦だよ、冒険者村の。エクサリオにもあったぜ。出入り口から大して離れてないアレは、カセリナ攻略の最初期に建てられた足掛かりだ。あいつを基点に、徒歩一時間の距離に砦が点々と築いてあって、中継地点や避難所、遠隔地での活動拠点になってる。比較的安全な移動経路ってわけだ。さっき渡した図鑑、見てみ。砦の地図がある」
アキラは最初の一枚をケヴに掲げる。
「これ?」
「それ。名前付きの印がぽつぽつあるだろ? そいつが砦の位置」
改めて簡素な地図を見る。「主に北と北東のほうに伸びてますね。ルートがぐにゃぐにゃだけど。地形のせいなのかな。一番遠い砦で……」
アキラは〝徒歩一時間〟を時速五キロに換算する。
「三五キロくらい?」
「もっと短いよ。二五キロ前後。どこの村の砦も、最遠到達点はそんなもんらしいぞ。片道二五キロが補給線を維持可能なギリギリのラインなんだと。化けモンだらけの非友好的地域にしちゃ良くやってる」
非友好的地域――すごくお役所っぽい表現だ。
こういうちょっとした言い回しからケヴの将校の顔が透けて見える。
「二五キロから先は前人未踏?」
「モンスターカントリー以降は、ああ、前人未踏みたいなモンだ。一般的な冒険者の活動領域じゃないのは確かだよ」
「前人未踏の奥地をゆく三〇〇キロの馬車の旅か。いまさら言っても仕方ないですけど、ケヴさんも無謀だと思いません?」
「どうかな? あたしとしては、旅の守護神への不信感の表明は災いを呼ぶと思ってるよ。にしても、タッチの差だったな」
ケヴが冒険者の列を顎先で示す。
「連中の帰りがもうちょい早けりゃ、今頃、いつ終わるとも知れない待ちぼうけを食わされていたところだ」
「急いだ甲斐がありましたね」アキラは曖昧な声音で応じる。挿絵どおりの怪物がわんさかいるのなら、待ちぼうけを食わされていたほうが良かったのかも……
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