【ただの幻想】
見通しの悪い下生えの中をがむしゃらに駆けながら、このまま直進するわけにはいかないことに思い当たる。半キロも行けば、市壁の角を狙い撃ちにした弓兵の一団にぶつかる。それ以前に、三人組の仲間と鉢合わせするかもしれない。なら河か? アキラは即座に却下する。先ほどの河泳ぎで溺れかけた記憶は新しく、浮き輪代わりの手頃な流木が見つからなければ、今度こそ溺死する。そうでなくとも、矢で狙い撃ちにされる。
西。西へ行け。市壁から確認したとき、森の西側にも穀倉地帯が広がっていた。あそこへ逃げ込んで、追っ手を撒いて、南下するのだ。出たとこ勝負の域を出ないが、どんな計画でも、無計画よりはいい。
肩越しに背後を振り返る。何も見えない。が、声がする。追っ手がカエル言葉で声をかけ合っている。おそらく距離は詰められていない。むしろ引き離しているはずだ。こっちは身ひとつで、連中は重そうな武具を着けている。リードは保てる。
そこで進路を斜めに取り、森の西側の穀倉地帯を目指す。数百メートルで木立を抜け、野原を一気に渡り、似非麦畑の中へ身を躍らせる。高さ一・七メートルほどの麦っぽい植物はタンポポじみた穂を実らせている。予想していたが、二メートルほどしか視界が利かない。しかも穂に体が擦れると綿毛が目印のパン屑のようにふわふわ舞い落ちて、畑に入った者がどこをどう歩いたのかが一目瞭然になる。なお悪いことに、畑に入るときに麦っぽい植物を踏み荒らしてしまっている。そしてダメ押しとばかりに、石弓で殺されたロフト兵の血が――地面に押し倒されたときにたっぷり浴びた彼の血が――麦っぽい植物を点々と汚している。アキラは完全に息が上がるまで走りに走り、倒れるようにして両手両膝を突く。
激しくあえいでいるうちに、いくから呼吸が落ち着いてくる。
耳を澄ます。
穂がさらさらと風に撫でられている音だけが聞こえる。
血なまぐさいイメージが脳裏で弾ける。髭面の兵士の頬に開いた丸い穴。石弓の兵士の砕けた眼窩。投げ斧の兵士の首元から噴水みたいに噴き出した血と、その口からこぼれた血。
おまえが殺した、と心の声が囁く。
ああ、ぼくが殺した。
おまえは三人も殺した。
殺されかけたんだ、ああするしかなかった。
おまえは引き金を引いた。
殺らなきゃ殺られてた!
そうとも……殺らなきゃ殺られてた。そしてたぶん……また同じ状況になったら、ぼくはきっと同じことをする。ここから生きて脱出するために。
クソったれ異世界め。
にしても、とアキラは手の中の拳銃に目を落とす。なんでこれがいきなり現れたわけ? どうして地球の銃がぽんと? なぜ? どいういう理屈で? 何か……関係のありそうなことを思い出せそうだが、すっと出てこない。どこで何を聞いたんだっけ……?
強風がざあっと吹き抜けて、心の表面に浮上しかけていた答えがするりと意識の外へこぼれ落ちる。逃走を再開しなきゃ。ここへ来るまでに、注意力散漫な小学二年生男児でも難なく追跡できるほどの痕跡を残している。しかもぼくは彼らの仲間を三人殺してる。ちょっとやそっとじゃ放っておいてくれないだろう。でもその前に、やっておくことが一つ。
アキラは空の弾倉を引き抜こうとする。びくともしない。ちくしょう、抜けろ、と拳銃をいじくり回しているうちに、空弾倉がぽろっと脱け落ちる。オーケー、ぼくは今どこを触った? ゲーム知識のマガジンキャッチと実物のそれ――グリップ脇のボタン――がようやく一致する。
もう一つの稼働部位、スライドロックレバーも知識と実物が一致する。下げると、スライドのロックが解除されてパシャっと剥き出しの銃身を覆い隠す。上げると、スライドを開放ポジションでロック。
そのスライド側面に〝PPQ〟なる刻印。見覚えのある字面だが……まあいい、と予備弾倉を手に取る。好奇心から実弾をよく見、最初のときには気づかなかったものに気づく。弾頭にプラスドライバー型の窪み――フルーイッド・トランスファー・モノリスク弾。どこのブランドの弾薬かはわからないが、この特徴的な形状は間違いなくリーハイディフェンス社のFTM弾だ。ゲームのテクニカルデータで何度も見た。口径は? イジェクションポートから覗く薬室外面に刻印を発見――9ミリ。何発入ってる? 弾倉背面に並ぶ覗き穴の最下段、左上に17。ちっぽけな弾が一七発。もう一つの弾倉を回収できなかったのが悔やまれる。もうこいつの出番は来なければいいとも思う。
スライドを閉鎖ポジションにしてから、アキラは実包入りの弾倉を挿し込む。安全装置がどこにあるのかはわからず仕舞いだが、スライドさえ引かなければ薬室は空の状態に保たれ、暴発の危険はないので良しとする。
拳銃が手元にあるのは心強い。
しかし、その心強さは幻想だ。
先の一件は運が良かっただけだ。たかだか四、五メートルの距離で何発も外しながらあの三人を倒せたのは、本当の本当に、運が良かった。この次、追っ手に追いつかれたら、おそらくそこが人生の終着点になる。〝さっさと逃げろ〟と心の声がせっつく。
アキラは空を見上げて、少し傾いている太陽を指標におおよその方位の見当をつける。
今はとにかく、右岸を北進していたエクサリオ軍部隊と、その上流の河辺に配置されている弓兵の一団と、あの三人組のようにロフト兵狩りだか偵察だかをしているかもしれない兵隊をことごとくかわし、振り切って、連中のレーダーから消えなくてはならない。エクサリオ軍が右岸に展開している部隊の総数など知る由もないが、やってのけなくては。
南下するのはそのあとだ。
まず西へ。
と、足を踏み出しかけて、悪くなさそうな手を思いつく。
居場所を喧伝している山ほどの痕跡を途切れさせ、さらには追っ手に先入観を抱かせる、一挙両得の手だ。ふと喉の渇きを覚えたので、即席の行動計画に微修正を施す。可能なら、戦争のせいで無人になっているであろう村や集落に寄り道して、飲み水と食料と衣類を調達。
殺人者にして逃亡者にして空き巣。
サイッテーだ。
それもこれもこのクソったれの……
アキラは北西と思われる方角へ似非麦畑の中を小走りに進む。ぐいぐい距離を稼ぎたい衝動をねじ伏せて、時おり足を止めてはじっと耳をそばだて、また走る。追いつかれるのはいやだが、不注意で窮地に陥るのはもっといやだ。哨戒中のエクサリオ兵の真正面に飛び出すとか、そいつの背中にぶつかるとか、何かの動物の尻尾を踏んづけるとか……。この畑は切れ目なく延々と広がっているのではないかと不安が膨らみ始めたとき、南北に走る農道に出る。安堵のため息を漏らし、先刻の閃きを実行に移す。
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