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【隧道の終端に射す光】




 悲しみに暮れている暇はない。

 アキラはミハイに別れの一瞥を投げ、市壁の角へ向けて全力疾走する。けれども、角を曲がり切らないうちに西門へ辿り着くのは不可能だと悟る。対岸の森に配置されている弓兵が、逃げ惑うロフト兵を狙い撃ちにしているからだ。西側の空堀に避難しようにも、そちら側でも火球の的にされている市壁が瓦礫を降らせている。畑へ逃げるのは? 遮蔽物のない開けた地形を四〇〇メートルほど走って? 論外だ。畑へ転進した兵士は片っ端から射られてる。南門のほうへ戻ろうとしている兵士も片っ端から射られている。

 となると、活路は一つ。

 ――矢が飛んでくるほうへ走り、ハルドワイネン河に飛び込む。

 正直なところ、アキラはやりたくない。とっくにそれを試みているロフト兵たちが死体の山を築きつつあるからだ。しかも見たところ、一〇人に一人も成功していない。

 判断力麻痺に陥りかけたとき、地べたを這い進んでいる兵士に三本の矢がほぼ同時に命中するのを目撃し、次いで、死体の陰に隠れている者の周囲に次から次へと矢が降りかかるのを目撃する。ここには逃げる場所も隠れる場所もない。動け、動け、動け。

 アキラは最善の――であってくれ――退路を目指し、河までの一二〇メートルを駆ける。最初の一〇メートルで正面を走る者が「うっ」と声を漏らして前のめりに倒れ、次の一〇メートルで横を行く者が額から矢を生やしてつんのめる。アキラは自分を狙って放たれた矢が真っすぐ飛来し、耳を掠めて飛び去るのを見る。そして恐慌状態の意識の隅で違和感を覚える。対岸の森まで優に三〇〇メートル。弓兵たちはその森の端から、射角を取らずに矢を放っている。常識的に考えて、棒状の物体を水平に飛ばすにはちょっと遠すぎないか? 狙い澄ました一矢が脇腹を掠めた瞬間、違和感は忘れ去られる。脚がピストンのように動き続けている。幾度となく負傷者や死体に足を取られかける。ハルドワイネン河まであと八〇メートル。あと四〇メートルというとき、今にも飛び込もうとしていた数人が相次いで射られて大地や河面に倒れ伏すのを目の当たりにし、決定的かつ全面的に判断を誤ったのではないか、とのそら恐ろしい疑惑と後悔の念に囚われ、しかし手招きをしている波のうねりはもうそこで、束になって飛んでくる矢ももうそこで、アキラは信じてもいない神だか仏だか、とにかく形而上的な何かに祈りながら、崩れた飛び込みのフォームで宙に身を躍らせる。

 青灰色に濁った水面で腹と胸と顔面を激しく打つ寸前、対岸の森に先ほどよりも多くの人影があるのをアキラは見――

 水流に揉まれて上下左右の感覚を失う。無我夢中で手足をばたつかせて、ちらちらと踊る仄かな明かりを目指す。水面から顔が出る。咳き込みながら空気を貪っていると、風を切る音と共に辺りの水が不自然にちゃぷちゃぷ跳ね始めて、アキラは自分が鴨打ちの的になっているのを悟る。忌々しい矢がなおも熱烈な接吻をせがんでくるので、俄かに発症した水恐怖症に抗って水中に戻る。半ば溺れるようにして潜水し、洗濯物の気分を嫌というほど味わってから、どうにかしてふたたび河面から顔を出す。だいぶ下流に流されている。自分を射殺そうとした連中の姿はもう見えない。矢も飛んできていない。でも森の中にまだ大勢いるかもしれない。左岸へ戻るべきか? 畑の奥深くに陣取っているはずのエクサリオ軍のことを考えるとそれも……。迷ったときは前進しろ。計画どおりにやれ。アキラは流木にしがみつき、危険を冒してバタ足で対岸を目指す。

 河面にしなだれかかっている下生えを両手でつかんだときには、息も絶え絶え。そのまましばらく休み、今にも萎えそうな腕に力を込めて、岸に這い上がる。そこは薄い木立で、草地の向こうに森が見える。ここまでは概ね予定どおり。追っ手はなく、怪我もなく、怯え切っていてはいても命がある。逃亡資金の詰まった革袋は、奇跡的にも、まだ首からぶら下がっている。当初の予定と異なるのは、右岸がエクサリオ軍のテリトリーになっていること。そんな危険な場所で身をさらして走りたくない。かといってここに永遠に留まってもいられない。森に動きはない。進め。

 念入りに左右を確認し、木立から飛び出す。森にたどり着くまでに想像上の射手に一〇〇回ほど狙いをつけられて、想像上の矢を同じ数だけ食らったが、現実には何事もなく草地を渡り切る。シダ植物に似た茂みの中に潜り込み、息を整える。いいぞ、とアキラは自分を褒めてやる。耳を澄まし、首をそろそろと伸ばす。付近に人の気配はない。ますますいいぞ。さあ、次は南だ。トゥルイーエン市が制圧されている可能性はある。リランの生死が不明の今――ボディブローのような心痛――カルナリーを目指す意義も薄れている。でもほかに行く当てがない。着いてから考えよう。

 河を泳ぎ渡る際に半キロ近く流されたため、大して進まないうちに森の南側の切れ目に達する。アキラは木陰から正面の畑を観察し、次いで河向こうの畑を観察し、また正面の畑を観察する。丈高い似非麦畑まで、約一〇〇メートル。アキラは納得がいくまで辺りを走査し、姿勢を低く保って野原に踏み出す。

 すると、二〇歩も行かないうちに真後ろで音がして、男が二人、転がるようにして森から出てくる。濡れそぼったシャツとズボン――ロフト兵に違いない。河を渡る際に重い武具を脱ぎ捨てたのか、どちらも手ぶらだ。二人組がアキラをちらりと見、走り続ける。両者とも息を切らし、両者とも森を振り返っている。その森から完全武装の兵士が三名、がさがさ音を立てながら走り出てくる。対岸にいた兵士たちと同じ恰好だ。お揃いの鉄兜と胸甲、灰色のシャツとズボン。エクサリオ兵。

 エクサリオ兵たちは投げ斧と二挺の石弓でもって、瞬く間に二人のロフト兵を仕留める。太矢に後頭部と首を射抜かれたほうが抱擁するようにアキラにぶつかり、地面に押し倒す。

 のしかかる死体を脇に転がしたとき、髭面のエクサリオ兵が剣を抜くのをアキラは目にする。ほかの二名は半円を描いて緩く散開し、見物の構えだ。アキラは畑へ逃れるべく、立ち上がりながら振り返る。あろうことか、その畑のあちこちから数十名のエクサリオ兵が姿を表す。畑と森を分け隔てる野原には騎馬の影。河べりにも複数の歩兵の影。つまりぼくは、右岸を北上している部隊の真正面に飛び出したわけか……。アキラは激しくうろたえながら髭面の兵士に向き直る。一番手薄そうなのは森だが、得物を手にした筋骨逞しい三人の兵士が立ちはだかっている。フェイントをかけたら抜けるだろうか? ほんの数秒前に凄い腕前を披露した投げ斧の兵士と石弓の兵士の攻撃をかいくぐって?

 髭面の兵士が日々の退屈な仕事を片づけるかのような調子で進み出る。

 アキラは絶望の大波に押し流されるのを感じる。今にも気力が萎えそうだ。一縷の望みをかけて河のほうへ走ろうとするも、右端の兵士――斧をぶん投げたやつ――がこれ見よがしに石弓を胸に抱きかかえてアキラの動きを掣肘する。髭面が近づいてくる。死に物狂いで抵抗しようにも、剣を持った相手に素手で飛びかかれる気がしない。せめてナイフの一本でもあれば。石でもいい。しかしこの野原には石ころ一つ落ちていない。

 何か身を護るものがあれば。なんでもいいから武器が――

 すると、長テーブルが現れる。

 どこからともなく、ぽんと。




50話は今夜19時30分に投稿します。


【次回新章突入】

大変長らくお待たせいたしました。

そして、ながぁぁぁぁぁい導入部にお付きいいただき誠にありがとうございました。

次回、ようやくタイトルとタグの一部を回収です。



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