【惨禍】
一キロの彼方から誰かが呼んでいる。
激しく肩を揺さぶられて、アキラは重いまぶたをゆっくりとしばたく。雲一つない蒼い空が見え、覗き込む男の顔が見える。逆光になった白い顔と白金色の胸甲。どちらも土と泥で汚れ、長い頭髪が乱れている。アキラは肘を突いて体を起こすと、ぼんやりした頭で考える。耳鳴りがする。体は動く。どうやら怪我はしていない。
男が何か言う。その口が大きく動いている。怒鳴っているようだが、よく聞こえない。「無事か?」と尋ねているようだ。アキラは漫然と相手を見上げる。男の注意はすでにアキラから逸れ、腕を振り立てながらがなっている。
定まらない視線を辺りに巡らせる。先ほどまで南門のあった場所が瓦礫の山と化し、市壁に大穴。その付近にはなぎ倒された人、人、人。草地のあちこちにクレーターが穿たれ、黒い土が露出している。
遠い人影がばったりと地に伏す。這いずる姿や、剣を支えに立ち上がろうとする姿がある。倒れている者は多いが、立っている者も多い。ふらふらと夢遊病患者のように、あるいは機敏に、または仲間に支えられて、兵士たちがてんでばらばらの方向へ動き回っている。そこかしこで、泥と血にまみれた将校が、泥と血にまみれた部下を掌握しようと努めている。
混乱の極みにある生存者の足元に、雑多なものが散乱している。倒れたまま動かないたくさんの人体、大小の瓦礫、抜き身の剣、曲がった槍、ひしゃげた兜、壊れたマスケット銃、折れた矢。それから、持ち主のいない腕や脚。
被害は崩れ落ちた南門の周辺と、陣の中央に集中しているようだ。左翼と右翼の部隊が駆け足でやって来て、負傷者を助けつつ防衛線の穴を埋めていく。何をするでもなく呆然と辺りを見回している兵士の姿も目立つ。被害の大きさに恐れおののいているかのように。自分たちの目にしている光景が信じられないかのように。数メートル先にオーグ隊長が横たわっている。腰から下がない。妙な感触を覚えて、アキラは肘の下に目をやる。誰かの破れた腹と、こぼれ出たはらわた。恐怖と胸のむかつきが意識の底で蠢く。
見回すうちに、朱色の法衣が目に飛び込んでくる。土をかぶり、両腕を広げて仰向けに倒れている。リラン。眠っているように見える。その表情は穏やかで、薄く開かれた両目から覗く灰色の瞳が虚空を見つめている。
アキラはリランへ手を伸ばす。しかし指先が僧服の肩に届く前に、不意に現れた二つの人影が視界を遮る。一人は兵士で、一人はミハイ。ミハイがかぶりを振りながらリランを見下ろし、次いでアキラのほうへ屈む。声をかけられるが、まだ頭がぼんやりとしている。耳鳴りも続いている。
ミハイと兵士が無声の議論を始める。リランとアキラのことを巡ってやりあっているようだ。表情と身振りからそうとわかる。しまいには兵士が〝好きにしろ〟という風に片手を振り、どこかへ走り去る。ミハイがその背中を睨みつけてから、法衣の背中と膝裏に腕を差し入れて恭しく抱き上げる。その拍子にリランの頭が外側にがくんと垂れる。頭頂部に傷。血まみれの短い頭髪の奥からカリフラワー状の組織が顔を覗かせるほどの、深い傷。
ミハイが安心させるようにうなずきかけてきたときも、リランを抱えて市壁のほうへ駆けていったときも、アキラはろくに反応できない。思考はのろく、心の動きはさらにのろい。ミハイはリランをどこへ連れて行ったんだ? なんのために? リランはもう死んでいるのに……
そこへ、天から火が降ってくる。火の玉が何十発も、雨あられと。今度の火の玉はおよそ拳大で、いかにも炎といった具合にめらめらと燃えている。そして大地とキスするなり、土くれを数メートル吹き飛ばす。
その光景を、アキラは無感覚の分厚いベールを通して眺める。立て直されたばかりの横列を火の玉が襲い、次々と血煙が上がる場面を。四肢がもげ、肉片が飛び散り、胴体に直撃を食らった兵士が水風船のように破裂する様を。大地にへばりついている負傷者や死者がさらに切り刻まれるところを。逃げ出そうとする者やそれを押し止める者を。
アキラはのそのそと立ち上がり、覚束ない足取りで市壁のほうへ歩く。ミハイのあとを追いたかったのだ。しかし一方的に殺戮されている兵士の列が進路を塞いでいる。どうしたものかとアキラは立ち止り、また歩を進める。今や目と鼻の先に、ぼろぼろの兵士たちの顔が居並んでいる。何人かは〝早く来い〟と腕を振り、何人かは狂人を見るような目でアキラを見ている。
と、横合いから腕をつかまれて、地面に引きずり倒される。やあ、ミハイ。そのまま後ろ向きにずるずると引っ張られる。
音が戻ってくる。
無数の炸裂音。悲鳴。絶叫。怒声。
頭の霞が急速に晴れて――
――アキラは時間差のショックとパニックに見舞われる。
支離滅裂な思考の中に、重傷を負ったリランの姿が鮮烈に浮かび上がる。ミハイに肩をつかまれる。辺りを見ると、防護板や盾を掲げて屈みこんでいる兵士たちの姿。
「若いの、大丈夫か?」ミハイがアキラの目を覗き込む。
「ああ、うん、だいじょぶ」
「怪我はないかね?」
「と思う」
ミハイが呆れたように笑う。「びっくりしたよ、まったく。おまえさんのところへ戻ろうとしたら、当の本人が火の玉がわんさか降ってる中をぼやぼや歩いているんだから」
不意に辺りが静かになる。負傷者の悲鳴やうめき声は聞こえるが、炸裂音が途絶えている。暴風の壁の轟轟いう音も聞こえない。
「おや、火の玉がやんだね」
「何が起きたの? つまり、さっき降ってきた火。火の玉って何?」
ミハイが不思議そうな顔になる。「もちろん魔法さね」
魔法。アレが。
めちゃくちゃだ。
「ありゃエクサリオの攻撃だよ。魔法の撃ち合いは珍しくないが、あんなひでぇのはお目に――」
「ミハイ、リランは?」
「中に運んだ」と親指で〝元〟南門のほうを指す。「さっきまではなんとか通れたからね」
「今は?」
「もう通れん。あのでけぇ門扉が斜めに引っ掛かって、瓦礫を塞いでるんだ。隅っこに人が通れるくらいの隙間があったんだが、アミピダス様を中の連中に渡してすぐ、その隙間も埋まっちまった。瓦礫が崩れたんだ。でっけえのがごろごろと」
「リランは……まだ生きてるの?」
「最後に見たときは、辛うじてね。微かに息をされていたよ。でも、わからん。一応、中の連中にお医者様に診せるよう言っておいたが」
「瓦礫を越えて中に入れそうかい?」
ミハイが小刻みに首を振る。「無理だ。あそこは敵の矢に狙われとる。門扉をどかそうとした兵隊さんがどんどん射られてた。おれがこっちに戻るときは、門扉を乗り越えようとしたモンがやっぱり射られてた。胸壁の連中が何本か縄梯子を落としたが、あれを生きて登るのは――」
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