【異変】
胸壁から頭を引っ込めたアキラの傍を、三〇名ほどの兵士が通り過ぎる。その半数近くは、地上では一人も見かけなかった女性兵士だ。自分と大して歳の変わらない少女までいる。アキラはその少女を盗み見、目で追う。その娘に限らずみんな杖を手にしている。なぜ? 足が悪いようには見えないけれど……
祈りを終えたリランがやって来る。
「アキラ、そろそろ食事を取っておいで」
「食べたい気分じゃない」
「食べなければ駄目だ」含みを持たせて言い足す。「ここからは体力勝負になる」
「ああ……確かにね。きみは食べないのか?」
「馬車の中で食べすぎたんだ。ほら、行っておいで」
きちんとした昼食の代わりに軽食が配られる。干し肉は硬く、赤パンはぼそぼそし、革袋の水はぬるい。
戦闘に参加しない市の奴隷たちにも緊張が漂う。若い頃に何度か実戦経験があるというミハイは、笑顔を浮かべている少数派だ。
「おれたちは怪我人を運び、弓兵に矢を届ける。難しいことじゃない。周りを良く見て動けば、かすり傷一つ負わんよ。ところで、若いの」
アキラは機械的に噛んでいた干し肉を口から離す。「なんだい?」
「詮索するつもりはないんだが、一つ気になっていてね。こっちへ来る前やら道中やらで、アミピダス様とごたごたやっとったろ? ありゃなんだったんだね?」
逃亡の打ち合わせさ、とアキラは胸の中で答える。食べ物が咽を通らないほどの不安と、良心に刺さった棘の存在を意識しながら、口ではこう答える。「リランの手伝いを頼まれたんだ」
「おやまあ、そりゃ高く買われたもんだ。なら、おまえさんはいっとう安全だな。エクサリオの田舎もんどもといえど、司祭様を狙うような馬鹿者はおらんだろうから」
「ああ、そんな馬鹿はおらん」無口なニムトが同意する。ニムトの声を聞いたのは、今日はこれが初めてだ。
「でも事故が心配だ」とアキラ。
「司祭様は何も、戦場の真ん中で死者の冥……冥……」言葉を探してミハイの視線が上に泳ぐ。
「冥福?」
タルノーの指物師が恥ずかし気に笑う。「おまえさんにリュシナリア語を教わるなんて、ふた月前の自分に言っても信じなかっただろうな。ロフト語もすぐに覚えちまうんじゃないか?
そう、冥福。司祭様は、兵隊が殺し合う横で死者の冥福を祈るわけじゃない。ちっとばかし後ろのほうで瀕死の者に祈るんだ。流れ矢すら飛んで来んさ。司祭様の手伝いなら、おまえさんにも女神様の加護があるよ」
「じゃあ、前もってアルマ=クフに感謝しておかなきゃだね」
「そうするがええ。おや、噂をすれば司祭様だ」
リランが南門の辺りに姿を見せ、「アキラ」と呼びかけながら手招きする。無口にして大食漢のニムトに食べかけの干し肉を渡してから、アキラは手招きに応じる。
「急ぎの用だ。来てくれ」リランが返事を待たずに踵を返す。
せかせか歩く朱の僧衣を追いながら尋ねる。「急ぎって?」
「首輪だよ。きみの首輪のことをすっかり忘れていた」
「首輪が何?」
「個人所有の物と取り替える」
「ふうん?」
最前列正面の草地に、オーグ隊長の姿がある。軍側の数人の将校と打ち合わせ中のようだ。リランが丁重な物腰で割り込み、彼の首輪を外していただきたい、と申し出る。
「先ほども申し上げましたが、彼は今、わたしの奴隷で、従者候補です。この首輪では勘違いする方も出るでしょうから、今のうちに取り替えておきたいのです」
「申し訳ありませんが、少々立て込んで――」
言いかけたオーグ隊長を遮って、リランが続ける。
「このままでは具合が悪いんですよ。この戦場が、わたしの補佐として彼の初仕事になるわけですし」
「あー、替えの帯はお持ちでしょうな?」
リランが懐から革紐のように細いチョーカーを取り出してみせると、オーグ隊長はうなずき、アキラの首輪に手を伸ばす。
「ほれ、じっとするんだ」
オーグ隊長が首輪を指先でつまみ、のこぎり歯状の細く短いナイフを隙間に入れて上下する。刃の背が肌に擦れて痛い。切れた首輪をするりと抜いて上着の隠しに突っ込む。
「さあ、これで良し。どうぞ、司祭殿」
「アキラ、背中を向けて」
チョーカーが背後から首に回されたところで、アキラは、街道の向こうの最前列に気を取られる。剣や槍で武装した軍の奴隷たちだ。武器を手にした元犯罪者たちを警戒してか、警備の人員が増えている。アキラは成田をすぐに探し当てる。一〇〇メートルも離れていない場所で剣をだらりと下げ、足元に視線を落としている。その姿に向けて心の中で語りかける。
ナリ、河だぞ。ぼくたちは逃げて自由になるんだ。カルナリーに着いたら、これまでの不運を笑い飛ばせるくらい愉快にやろう。コックをやって、流行の仕掛け人をやって――
革紐が結ばれる際に首を軽く引かれて、アキラは我に返る。
「司祭殿」と立派な髭をたくわえた軍の将校が横から言う。「軍議が終わりましたら、わたしの部下たちと共に祈っていただけませんか?」
「もちろん結構ですとも」
将校連とオーグ隊長が打ち合せを再開すると、リランがアキラにさり気なく合図する。一〇歩ほど離れてからアキラの首元を指さす。
「意匠はなんでもいいが、黒い帯が個人所有の証になる。それを着けていれば今後、誰かにとやかく言われることはないはずだ」聞き取り難いほど声を落として、「逃亡中は特に役に立つ。主人のお使いでもしている体で何食わぬ顔をしていれば――」
絶叫が響き渡る。
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