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【願い事】




 アキラはリランに肩を寄せて、囁く。

「きみは混乱をリヨして、ぼくを逃がす」

「利用。それが?」

「混乱をリヨウして、ナリタも逃がせないか?」

 目を見て了解する。成田を逃がすことはできない。

 リランが顔を背けて言いよどむ。「彼も助けてやりたいが……犯罪奴隷は軍の先鋒を担うことが多い。開戦と同時に敵に突っ込むんだ。彼の居場所なんてすぐにわからなくなる」

 要は、損害度外視の突撃隊か。

「あいつを犯罪奴隷から引き離すのは? この何日か、昼間にそうしていたみたいに。司祭の仕事を手伝わせるとか、何か口実を――」

 リランが首を振る。「戦場で軍のやり方に口を挟むのはさすがに無理だ」

「じゃあ……今だけなら? あいつにも計画を教えておけば、逃げられるかもしれない」

「きみの気持ちはわかるし、彼を信用していないわけでもない。でもね、彼が言葉に不自由な点を考えても、秘密を共有する者が増えれば増えるほど露見の危険性が――」

「リラン、頼む」

 視線が絡み合う。

 リランがその視線を地面に落とし、諦めたようにうなずく。

「わかった……試してみよう」

 念のために同郷の友人と別れを済ませておきたい、とリランの口からオーグ隊長に訴えてもらい、オーグ隊長から軍の警備責任者に話を通してもらうことで、五分も経たずに、アキラは成田との面会を果たす。軍側の警備兵の立会いのもと、短時間のみ、との条件付きだが。

「ナリ、大事な話がある」アキラは日本語で言う。

 成田の無表情がアキラのほうを向く。

「もうすぐ戦争が始まる。そしたらここから逃げるぞ。右のほうに河があるだろ? ここに来るときに横を通った河。戦いが始まったら、怪我をしたふりでもなんでもして、あの河に行け。ぼくも行く。いいか?」

 アキラは三秒待つ。

「ナリ、聞いてる?」

「願い事は?」

「え? 何?」

「願い事。おれは魔法だ。おまえは?」

「ナリ」

「おれ、もうすぐ魔法を――」

「ナリ、聞けよ。河に行って、待ってろ。戦争が始まったらすぐ」

 成田は白痴的な薄ら笑いを浮かべ、ふいと前方へ顔を戻す。アキラがさらに二度、逃亡計画を繰り返したところで、警備兵が横から口を挟む。

「そろそろ食事を与えなければならん。もういいな?」

 良くないが、相手が有無を言わせぬ調子で割り込む。連れて行かれる成田の背中に向けて、アキラはなおも念を押す。

「河で待ってろ! ナリ、河だぞ!」

 離れたところで見守っていたリランが、アキラの横に並ぶ。

「上手くいったかい?」

「たぶんね。やれることはやったよ」

「そうか。腹ごしらえでもしてきたまえ。今頃、何か配られているだろう。では、またあとで」リランが僧衣の裾を翻して背を向ける。

「きみは?」

「ぼくは仕事がある」


 仕事とは小さな祈りの会だ。

 ロフト王国では豊穣の神ナルロ=マーザムを奉るマーザム派が主流であり、兵士たちの大多数もマーザム派の信徒だが、こと戦場においては、戦神を奉る宗派の祈りを求める声が多いそうだ。これには、マーザム派の僧侶が戦場まで出向かないという事情も絡んでいる。なんにしろ、開戦前の祈祷は古来からの習わしだ。

 アキラは友人との別れが迫っていることを意識して同行を申し出る。とはいえ、手伝えることなど何もなく、リランが兵士のグループに向けて聖典の一節をリュシナリア語で引用する様子を脇からぼけっと眺めているしかない。

「退屈じゃないかい?」騎兵グループに向けた二度めの祈祷のあとでリランが尋ねる。

 アキラは感想を述べる代わりに、聞き覚えたばかりの一節を諳んじてみせる。「〝我らは強大な敵の存在を喜ぶべし。我らは敬意と礼節をもって敵に接すべし。我らは血と恐怖に溺れることなく事に当たるべし。我らの生をそこに見出さんがために〟」

「ライエ記一二節。兵に人気があるんだ」

 三つめに立ち寄ったのは、市壁の内側に設えられた石造りの階段を上ったところにある、慌ただしい胸壁だ。リランが弓兵たちと共に祈るあいだ、アキラは地上四階の高みからハルドガルダ防衛隊の陣容を眺める。

 幅七〇〇メートル余りの四列横隊――壮観だ。等間隔に配された一〇門前後の大砲。砲と砲のあいだにずらりと並ぶマスケット銃。二列と三列めを構成している、剣や槍で武装した歩兵。その背後、一番奥に配置されているのは、軍の弓兵と農民の弓兵。彼らは自分たちの背丈より高い長弓の具合を確かめたり、手に取りやすい場所に予備の矢を突き立てたりと、準備に余念がない。

 これが臨戦態勢なら、もっと壮観だったろう。けれども今、兵員の八割ほどは、銘々の持ち場で地面や荷物の上に座り、パンか何かを食べている。両翼の端に展開している騎兵隊にしても、ほとんどがハラスから降りて食事中のようだ。下で見たときよりも兵士の数が多いのは、リランの言っていた前線からの後送部隊が加わったからだろうとアキラは見当をつける。

 四〇〇メートル先の畑に視線を転じる。偵察に出ている騎馬の姿がちらちら見える。麦類に似た丈高い植物に隠れがちだが、農民のはけた街道のずっと先を単騎、または数騎で駆け回っている。

 門の外では比較的静かに物事が進行しているのに反し、門の中では大騒ぎが発生している。家具や材木や馬車で作られた簡易バリケードの反対側に、好き勝手に武装した市民が詰めかけて、「市を護れ」だの「侵略者を八つ裂きにしろ」だのと暴走気味のデモさながらに気炎を上げている。剣を佩いている者、棍棒を振り立てている者、ピッチフォークを肩にかついでいる者――老いも若きも男ばかりだが、女性の姿もちらほら目につく。バリケードの前で押し合い圧し合いしている彼らに向けて、将校が大声で注意する。いいですか皆さん、そこがあなた方の持ち場です、無闇に前へ出ないように!

 非近代的な軍隊と武装市民の戦争準備風景――またもや映画のセットに紛れ込んだような気持ちになる。その感覚に落ち着かなくなり、アキラは南側の眺望に向き直る。なだらかに隆起しながら延々と続く農耕地。地平線の凹凸を形作っている丘陵と山。青く霞む、万年雪を頂いた山脈。来週か再来週には、あの山脈のずっと先にいるんだろうか? この世界の測量技術に疑問は残るが、リランの知識を信じるなら、カルナリー王国まで九〇〇キロ。道のりは長い。

 そこで思いついて、胸壁から軽く身を乗り出す。一六〇〇メートル右手――ハルドワイネン河の対岸に広がる森は生憎、それほど深くなさそうだ。森の向こう側も南側も、農耕地らしき薄い緑が覗いており、麦か何かの穂が波打っている。あの地形を利用すれば上手く逃げられるかもしれない。




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