【現地で再会といこう】
「どんな?」
「ユーエリカ大陸とロフトの地理はまだ頭に入っているね?」
「入ってる」
「なら、南を目指せ。トゥルイーエン――憶えているかい?」
「ここから二〇タンネ南の、街道の街。最初に習ったやつだ」
「よし。トゥルイーエンは小さな街で、ハルドガルダのような立派な市壁がない。夜を待って忍び込むんだ。皆が寝静まるくらい、うんと遅い時間に。一本しかない目抜き通り沿いに進むと、街の中心にマーザフ派の小さな教会がある。そこの司祭ハウゼはぼくの呑み仲間だ。彼を頼れ。正装をしていて良かったよ」
言いながら、リランが中指から指輪を抜き、さり気なくアキラに手渡す。アキラは簡素な銀の指輪をためつすがめつする。内側に異国の文字が刻んであり、リラン=イザ=アミピダスの名が辛うじて判読できる。
「司祭に贈られる指輪だ。きみの人物証明になる。そいつを司祭ハウゼに見せて、経緯を説明するんだ――ぼくの秘書になること、奴隷の身分から解放されること、助祭の勉強をする用意があること、軍の不可解な要求のこと――すべてだ。彼は無政府主義思想にかぶれたロフト嫌いの御仁なんだ。軍に追われていると言えば、張り切ってきみの逃亡に手を貸すだろう」
「リラン――」
「何も言わなくていい」
「そういうわけにはいかない。なんでこんなに――」
「聖職者と教会はいつだって、助けを必要とする魂の避難所だ」にやりとして、「本音を言うと、ぼくはあの中佐が気に入らない。大いにね。そして、友人に降りかからんとする災厄を黙って見ているつもりもない」
アキラは胸が熱くなる。「でも――」
「〝でも〟はなしだ。トゥルイーエン。いいね?」
うなずく。「そのあとは司祭ハウゼの指示に従えばいいの?」
「そう。ただし、カルナリーに行きたいと告げるんだ」
「きみの故郷か」
「太陽の国さ。予定は大幅に狂ったが、最初の計画でも、いざというときはきみをカルナリーに逃がすつもりだったんだ。南部連合の支配地域まで行けばロフトは手出しできないからね。いいところだぞ。外国人に寛容で、人種差別なんてほとんどない。現地で再会といこう」
「ああ、現地で」不安を押し殺してアキラは言う。「カルナリーのどこで?」
「西部のホウレイエ地方を目指し、ニグニツァのアミピダス家を訪ねろ」
「きみの実家を?」
「そうとも」
「大貴族なんだろ? ぼくみたいなのが――」
「大丈夫。手紙を書いておく。市が包囲されても、カラスブリダが使える」
カラスブリダ――異世界版の伝書鳩。
「郵便の遅れが予想されるから、現地に到着後、一週間ほど置いて訪ねるといい。それで駄目ならまた一週間後だ。ここまではいいかい?」
「トゥルイーエン、司祭ハウゼ、カルナリー、ホウレイエ地方、ニグニツァのアミピダス家、郵便事情に鑑みて一二日置きに訪問」
「よろしい」
ここにきてやっと、アキラの中で逃亡が具体性を帯びて現実の重みを持つ。胸がやかましいほどに早鐘を打ちだす。
「確か……カルナリーまで六〇〇タンネ近くある。かなり南だ」
「教会の組織網は大陸全土に跨っている。正しい人物を介し、正しい戸を叩けば、正しい道が開く。たとえ宗派が異なろうとも。それから、こいつが役に立つ」
リランが懐から小ぶりの革袋を取り出す。受け取ると、見た目よりずっしりしている。袋の口から中を覗くなり、アキラは息を呑む。
「金貨だ」
「銀貨のほうが多いよ。きみを買った残りさ。ふっかけられると思ったから、多めに用意したんだ。ぜんぶでだいたい、三ラートある。裕福な多角経営農家のひと季節ぶんの稼ぎといったところだ」
「そんな大金――」
「いいから受け取れ。将来の秘書への先行投資だよ」リランが茶目っ気たっぷりに言い放つ。目は大真面目だ。
不意に視界を曇らせた涙を、アキラは手の甲で乱暴にぬぐう。
「約束する、いつか必ず返すよ。無駄遣いもしない」
「返さなくていいし、逃亡資金をケチる真似もするな。司祭ハウゼに渡せば、賄賂だの口止め料だので上手く使ってくれるだろう。最善でホウレイエ地方まで。最悪でもロフトの南国境を越えるまで。でもぜんぶ渡すなよ。金貨を一枚か二枚、手元に残しておくんだ。ニグニツァで足止めを食ったときの宿代になる。ああ、それからこれを」
リランが首の後ろに両手を回してチェーンネックレスをはずし、アキラに渡す。ネックレスには槍と楯の意匠の銀細工のペンダントが付いている。
「正装用の装飾品さ。失くさないように指輪と革袋を鎖に通して、首から提げておきたまえ」
アキラが指輪と革袋を貫頭衣の胸元にたくしこんだところで、リランが警告する口調で言う。
「理解していると思うが、ここから逃げるのは比較的簡単な部分だ。最大の困難は、逃げ切ることにある。とりわけロフトの領土を出るまでが危険だ」
危険。そうとも。危険に決まってる。
手違い一つで、何もかもおじゃんになりかねない。
それに危険と言えば――
「リラン、きみは? ぼくを逃がせば、きみの立場が悪くなる」
「ならないよ。何日か前に話したように、ぼくは三重に護られている。そしてきみの逃亡を幇助したと疑われることもない」
「どんな理屈で?」
「ぼくの奴隷は使い走りに便乗して行方をくらましたようです、と言えばそれでしまいさ」
「そんな子供だましみたいな言い訳、通用するのかい?」
「するとも。戦闘が始まれば、現場は大混乱に陥る。敵前逃亡を働く兵士もいれば、逃げ出す奴隷もいる。きみはその一人というわけだ」
アキラは足を止める。「リラン、きみも一緒に逃げないか?」
リランも足を止める。「ぼくは行けない。務めがある」
「もし戦争に負けたら――」
「もし戦争に負けても、心配には及ばない。敵味方を問わず戦死者を弔う聖職者は、敵対国からも敬意を持って扱われる。こんな言い方をしても許されるなら、敗戦国で最も身柄の安全を保証されているのは、聖職者だ」
「でもきみは戦いの現場に残るんだろう? 事故があったら――」
「事故は事故だ。司祭に付き物の職業上の危険負担にすぎない。聖職の道を選んだときから、ぼくはこれを受け入れている」
リランの静かな佇まいは、説得は無駄だと告げている。
アキラは口を閉じ、促されるまま歩みを再開する。
先日、初のブックマークをいただきました。どこのどなたかは存じませぬが、あなた様の道が陰らぬ太陽と月に照らされんことを。




