【魔法】
まだ三〇〇メートル以上離れているが、アキラの鋭い目ははっきり捉える。成田の顔面は腫れ上がり、真新しい痣で変色している。歩き方もおかしい。アキラは胃の中の朝食が鉛に変わるのを感じる。重い足取りで成田に近づき、様子をさっと確認する。虚ろな目、血で点々と汚れたズボンの尻と太腿……。尋ねるまでもなく、元の監房に戻されたか、連中にどこかで襲われたかしたのだ。
視線を感じる。見ると、軍の荷馬車の傍で、小麦色の男がにやついている。アキラと目が合うなり、挑発するようにシャベルの先を空に突き上げてみせる。二人はばちばちと睨み合い、アキラが先に目を逸らす。あんな獣とガンをつけ合ってもどうにもならない。無意味どころか、敵意の矛先が成田に向くだけだ。
その成田を、ミハイが悲しげに見つめている。それからアキラにそっと耳打ちする。
「何かおれにできることはあるかね?」
「ありがとう。でも気持ちだけで充分。ぼくに任せて」
「手伝いが要るときは呼んでくれ」
「うん」
アキラは市の奴隷用の荷馬車から二本のシャベルを取り上げて、成田を空堀へいざなう。
「ほら、行こう」
「あと……し」成田が口の中でぶつぶつ言う。
「え?」
「あと少し」
アキラは成田の横顔を覗き込む。
「ナリ?」
成田が顔を向ける。裂けた唇が薄い笑みを形作る。残った前歯が血で汚れている。目は、アキラを通り越してどこか遠くを見ている。
「あと少しだ」成田が繰り返す。「あと少し」
「何が? 何があと少し?」
成田の目の焦点が合う。無言でアキラを正視するうちに、その笑みが深くなり、唇の傷が開き、鮮血の滴りが下顎を汚す。アキラには狂人の笑みに見える。血塗れの唇から一本調子に這い出てきた言葉も、狂人のそれに聞こえる。
「あと少しで、魔法が使える」
「ナリ……大丈夫?」
「大丈夫」成田がロボット声で請け合う。「スゲー気分いい。おれ、あと少しで魔法が使える。あいつら全員、ぶっ殺してやる」
「ナ――行こう。突っ立ってると怒られる」
アキラは空いているほうの手でそっと背中を押してやる。成田が大人しくついてくる。
三歩めか四歩めで、成田が言う。
「アキラ、おまえも」
アキラは思わず隣を窺う。成田の柔らかい眼差しと狂気の微笑は、地面に向けられている。アキラは胸の中で自問する――ぼくはそんなに恨まれてるのか?
「あー、ぼくのことは殺さないでくれると嬉しいな」努めて明るく言ったものの、実際に明るい声を出せたのか心許ない。
成田が痙攣的にくすくす笑う。
「ちげぇ。おまえも魔法が使える。魔法を使いたいって思えば、使えるようになる。妖精がそう言ってる」
「そっか」アキラは咽の奥にせり上がってきた苦いものを飲み下す。「とにかく、今は仕事だ。休憩か昼メシのときに聞くよ」
「妖精がおまえにも教えてやれって言ってる。強い願いが、現実になるって」成田の声からさらに抑揚が消え、AIの合成音声よりも無機質になる。「この世界に認められたから、加護が与えられるって。おれは妖精の声が聞こえるようになった。おまえも一個、加護が与えられる。だから準備をしておけって妖精が言ってる。願い事は慎重に決めろって」
「了解」
「おれの加護は魔法だ。今日の明け方に妖精が教えてくれた。もうすぐ魔法が使えるって。魔法を使う手伝いをしてくれるって」
「シャベル、持てるか?」
「あと少しだ」
「どうだね、彼の様子は?」
昼休憩に入って即、ミハイが尋ねる。二度の小休止に続き、この質問は三度めだ。
どうもこうも……
「疲れているみたいだ、とても」アキラは肩越しに、体育座りをしている成田のほうを見やる。
「あの怪我、本当に大丈夫なのかね?」
「たぶんね。骨は折れてないし、一〇日もあれば治るってさ」今日の当番のオーグ隊長によると、だが。
ミハイが忌々しそうに犯罪奴隷の群れに流し目をくれる。「一〇日、何もなければ」
「うん。何もなければ」
「胸が痛むよ。珍しいことではないが、いたぶられた者の姿は胸が痛む」
アキラは木のコップの水を半分飲み、残りの半分を自分の頭にかける。
ここハルドガルダ市のあるロフト最北部はかなり緯度が高いはずだが、数日来の暴力的な陽射しと、陸で溺れてしまいそうな高い湿度は、日本の猛暑を思い起こさせる。どうやら普通のことではないらしく、奴隷仲間や警備隊の面々は、こんな暑い夏は初めてだとしきりにこぼしている。アキラは伸びすぎた前髪から滴る水を見つめる。体の表面は熱気にあぶられて茹で上がりそうなのに、心は二月よりも寒い。
「ほれ、若いの。飯をもらいに行こう。おまえさんの友人のぶんも」
「あの怪我で食べられるかな?」
「無理にでも食わせにゃ、体がもたん」
二人は列に並ぶ。昼食を受け取った連中が手にしている皿を見て、アキラはますます気が滅入る。エーデル風ベルガッツェ。献立の中でダントツで不味いし、塩辛い干し肉は成田の口の傷に酷く染みるだろう。
あと四、五人で自分たちの番というとき、荷馬車の上で給食の監督をしているオーグ隊長が横手のほうへ注意を向け、目を眇め、何かを注視する。アキラはつられてそっちを見る。北から二頭立ての優美な馬車が近づいている。珍しい光景だ。橋が落とされたため、西側の市壁の外は普段、人通りがほとんどない。演習か何かで西門を出入りする兵士の一団をたまに見かけるくらいだ。
黒塗りの馬車はゆるゆる速度を落として、給食の荷馬車の背後につける。完全に停車する前に中から戸が開け放たれ、リランが降り立つ。なんともど派手な格好だ――銀糸の複雑な刺繍で飾り立てられた朱色のガウンと縁なし帽。どうやら、あれがアルマ=クフ派の僧衣らしい。その見立てを裏付けるかのように、ミハイが言う。
「おやまあ。アミピダス様の僧侶らしい格好なんて、初めて見たよ」
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