【端緒】
詩聖ヨブアク=アーロウラの呪詛か祝福か、モナクダイザ――雲の日は〝不幸と大惨事と悪運がいちどきにやって来た午後〟になる。
その日は、場違いな人物が警備隊の詰め所から出てきたことで始まる。身なりの良い紳士が戸口に立ち、誰かを探すかのように中庭を眺め渡していたと思ったら、やおら上着の裾を翻して、颯爽と朝食の列に歩み寄ってきたのだ。
「司祭アミピダス?」男が尋ねる。
「いかにも」スープとパンを受け取ろうとしていたリランが答える。
「お食事中に失礼。書状をお届けにあがりました」男は緑色の蝋で封印された筒状の厚ぼったい紙をリランに手渡し、その手で詰め所を示す。「読み終わりましたら、どうぞあちらへ。外に馬車を待たせてあります」
「仕事が早くて助かります」とリラン。「着替えのために、アルマ=クフ派の教会へ寄っていただいても?」
「ええ、それはもちろん。ささやかながら馬車に軽食の用意がございますゆえ、お食事のほうは……」と語尾をたなびかせて、婉曲に急ぎの用向きであることを伝える。
「お言葉に甘えましょう。お心遣いに感謝を」
リランは男が背を向けるなり書状を開封する。
「それは?」とアキラ。
「担当窓口氏からだ」文面にさっと目を通してから、声を落として続ける。「このあとすぐ、きみの件で会うことになった。昼前には片づくはずだ。あとできみを迎えに行くから、本日中に主従の誓いも立ててしまおう。ではのちほど」
丸め直した書状を手にリランが立ち去ると、ミハイがアキラの傍にやって来る。
「どうしたんだね、ありゃあ」
「何か用事があるみたいだね」
アキラは後ろめたさを覚えながら答える。特に口止めされているわけではないが、従者の件を大っぴらにすると、面白くないと思う者が必ず出るだろうし、今や数人の勢力とはいえ、チェーシェン嫌いどもの根強い差別意識と反感に燃料をくれてやることになる。だからといって、親しい奴隷仲間に隠し事をするのは良い気分ではないが。
「それにしても、今朝のスープはいまいちだな」アキラは話題を変える。
「違いない」ミハイが鼻の頭に皺を寄せる。「バディアスを入れすぎだよ。ここの飯炊き係はいつも香草を入れすぎる。まったく、デーエル地方の連中ときたら。おまえさん、ヨーデホフトのエグリエを食べたことはあるかね?」
「ヨーデホフト地方は……ロフトの西のほうだっけ?」
「違う、違う。南だ」
「そう、南。エグリエって?」
「本当になんも知らんやつだな。これさ」とスープの皿を掲げてみせる。「名前は同じでも、ヨーデホフトのエグリエとは別もんだ。南の人間は舌と鼻が繊細に出来てる。北の連中はどっちも壊れてる」
「ミハイ、あんた南の出かい?」
「そうともさ」ミハイが誇らし気にうなずく。「喋り方でわからんか? まあいい。今は事情があってここにいるが、生まれも育ちもヨーデホフトだ。タルノーっていう山あいの小さな街があってね、凄くいいところなんだ。食い物が美味くて、酒が美味くて、道を行くのはころころ太った別嬪ばかりとくる。村を出てからずっとそこで暮らしていたよ。徒弟時代はアジールっていう街で過ごしたんだが、年季が明けてすぐ、タルノーに飛んで帰ったもんさ」
郷愁に誘われたのか、ミハイのおらが街自慢は止まるところを知らない。少年期の愉快な思い出を語ったかと思えば、川魚を使った郷土料理がいかに美味かを力説するといった具合に話がぽんぽん飛び、その溢れんばかりの熱意が伝播して、アキラはわれ知らず引き込まれる。ミハイの話を信じるなら、山間の街タルノーは〝天国に最も近い街ランキング〟でぶっちぎりの一位らしい。
タルノー。気立ての良い女たちの笑い声がせせらぎと交じり合い、高原に花咲き乱れる麗しの田舎街。リランの任地へ向かうときに寄り道できるかな? あるいは将来、現地の女性と結婚して家庭を持つとか。「将来? クソな異世界に骨を埋める覚悟が出来たというわけだ」と頭の一部がせせら笑い、「チェーシェンと結婚する女がいるとでも?」と別の一部が同調したが、アキラは無視する。夢想ぐらい好きにさせてくれ。
市壁沿いに工事現場へ向かう最中もミハイは喋りどおしだ。地元じゃ一四歳の成人の儀を賛美歌で祝う、と歌声を披露しだすが、二度めのコーラスの途中で不意に歌うのをやめる。
「ここだけの話だがね」と周りをはばかって声を低める。「おれはハルドガルダを去るんだ」
「買い手が付いたの?」アキラも囁く。
「そうともさ」ミハイの目が輝く。「相手は誰だと思うね?」
「指物師の親方?」
「うんにゃ、嫁さ。おれのこさえた借金を嫁がぜんぶ返して、おれのことも買い戻してくれたんだ。けちん坊の兄殿がおっ死んで、遺産が転がり込んできたそうだ。手紙にそう書いてあった」
「ご愁傷さま。それから、おめでとう」
アキラは右手を差し出す。ミハイが不思議そうにその手を見る。
「故郷のあいさつだよ。おめでとうって意味もある」
「その手をどうするんだね?」
「握って上下に振る」
「ふうん?」
しっかりと握手をしたミハイの手は節くれだっていて、力強い。
「ありがとうよ、若いの。まあ、あれさね、ここの連中は先がねえから、黙っていようと思ったんだが、おまえさんには教えておこうと思ってな」
「今日のぼくの酒はあんたにキ……キ……キンテイするよ」
「発音はなっていないが、ずいぶん難しい言葉を使いなさる。よくまあそこまで喋れるようになったもんだ。おまえさんなら、学士様にでもなれるんじゃないかね?」
「考えておくよ。いつ発つんだい?」
「早くて湖の日だね。あと二、三日だ。証文の遅れやら確認やら手続きやらでそれぐらいになると言われたよ。それもこれも、戦争のせいだ。エクサリオの田舎もんどもが」
「残念。でもタルノーに帰れるね」
「ああ、帰れる」ミハイの眼差しが遠くなる。「三年ぶりに、嫁と息子の顔を見れる。息子のパルノンは今じゃもう、おまえさんと同じくらいの歳だ。でっかくなっているだろうな」
「とっくに結婚していたりしてね」
「まだ先の話さね。パルノンは今年で一二だ。おまえさんは?」
「ぼくは一五――ネー、一六歳になった」
ミハイが目をぱちくりする。「成人していたのかね?」
「そうさ」こっちの世界ではそういうことになる、と胸の中で付け加える。
「おやまあ。もっと子供だと思っていたよ」
工事現場にはすでに犯罪奴隷たちの姿がある。これまでの五日間と同じく、成田一人が集団から引き離され、市の奴隷の担当区域のほうへとぼとぼ歩いている。ミハイの語る抱負――タルノーに帰ったら店を再開するつもりだ――は、途中からアキラの耳に届かなくなる。
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