【記念日】
トイレ事件の日の夕飯時、いくらか語彙の増えたアキラは、この点をリランに確認する。
「パサスシ ルータンダス ハイア。フヴオ フュイ ヴァラン……あー、キカネイン? ドゥ アンテ?」この辺り、平和。戦争はどうなってるんだ? 終わった?
「ネー、エ ヴァラン エズド ユウラ」いや、戦争は終わっていない。
リランが木の枝で地面に地図を描き、現在の戦況を簡潔に説明する。ユーエリカ大陸北部の一大国家エクサリオが、周辺諸国と事を構えて多方面に進軍している。しかしここロフト王国では、ハルドガルダ市の北東一三タンネ――約二〇キロ――の要所において、難攻不落を誇るロフト軍の砦がその侵攻を阻んでいるらしい。難民の原因だ。それからリランは、アキラの語彙に合わせて一つの概念を教えようとする。
「アルマズリワム」
肉入り根菜スープ二杯ぶんの時間をかけて、アキラはようやく理解する。
アルマズリワム――休戦または停戦。
リランは一旦脇に逸れて、アキラにヴェーカントラムとマウザを教える。
前者は地球の暦の週にあたり、一二日で一単位。後者は暦の月にあたり、三ヴェーカントラムで一単位。うるう年と夏と冬にプラス・マイナス数日の変動あり。各月と各曜日は、自然物にちなむ名称。一年が平均して三六五日であるのを認めたアキラの横で、リランが話を戻す。
休戦協定が結ばれたのは、約二週間前の、嵐の月の初頭。とはいえ、リランによると、エクサリオ軍とロフト軍は前線を挟んで未だ睨み合っている。いつまでも田畑を放ってはおけない、とハルドガルダ市周辺の村落や町に帰った元避難民たちは、緊張を強いられ続けている。戦場の付近一帯から逃れてきた難民に至っては、その多くが帰りたくとも帰れずにいる。つまり、平穏に見えて平穏ではない。
リランが言う。
「ザウグ ロフテニア アーマタ エスト ポウテレプネナス、ディー エズド バイカナン フヴオ エン ヴァラン ヴァリィ エスト ハイオータ」ロフト軍は精強とはいえ、戦争がどうなるかは、ぼくにはわからないよ。
アキラは胸の中でロフト軍にエールを送る。
四〇日めは、個人的な記念日になる。
街の中に顔見知りが出来たのだ。会釈を交わすだけの、ささやかな顔見知りだ。彼女は亜麻色の髪を持つ同年代の少女。屋台の野菜売りの娘らしく、開門を待つあいだ、通りの向こうで商売の準備をする姿を以前からちょくちょく見かけていた。
朝夕に通りですれ違うハルドガルダ市民の中には差別感情を向けてくる者が少なくないが、彼女は違った。その朝初めて目が合うと、ふっくらした赤い頬を弛めて、アキラに小さく会釈したのだ。これをきっかけに、通りを挟んだ会釈がちょっとした儀式になる。彼女は素敵だ。ああいう気立ての良さそうな子と結婚したら、毎日が楽しいに違いない。
数日後、通りの向こうへ熱い視線を送るアキラに、リランが含みのある笑みを投げる。
「ズュ リュシアン ホア、エウル?」あの娘に惚れたのかい?
「ズュ フュイ リサンコンゼティア」そういうんじゃないよ。
「ホホフ」
ホホフ――強弱の付け方で驚きや消極的同意を意味する音。この場合は〝そういうことにしておいてやるよ、兄弟〟といった感じか。
門を抜けて一日の労働へ向かうアキラに、少女が笑いかける。アキラは笑みを返す。美しい少女の笑顔。最高の贈り物だ。今度、声でもかけてみようか?
六〇日めになると、会話の中で意味を推測できる語句が増え、アキラは、気が向いたときにリカルドから教わっていたスペイン語会話よりマシな程度には、異世界語を操れるようになる。しかし発音はまた別の話だ。
一日置きの川辺の沐浴の場で、リランが言う。
「ディ エスト リアリス プラデセス アバフ ズュオ プラグレディ イム ライラ エ ランゲシャ」きみの語学勉強の進歩を誇りに思うよ、本当にね。
「ディー エイガン ディム プラグレディ ダネク エ ズュ」きみのおかげだよ。
「セクラス。バイツェン ズュオ プラヌンティアティオ エスト ズァガン。イム パティカラレス ジサント アバフ メム エスト ヴァーサイロゥ」どういたしまして。でも発音が酷いな。特にメムの音がサイテーだ。
周りで水浴びをしている男たちが「ジィー、ヒット エスト!」と同意する。
ああ、本当にサイテーだ!
実際のところ、喉の奥で発声する〝ガ〟や〝ホフ〟の音も〝メム〟に負けず劣らず最低だ。鼻から抜ける〝フェフ〟に至っては、聞くに耐えないレベル。正しい発音の習得にもっと努力を傾けようとアキラは決意し、即座に思い直す。いや、これは外国語会話の初心者にありがちな躓きの石だ。ネイティヴの発音に囚われ過ぎると、そのほかの面が疎かになる。もちろん正しい発音は大切だけれど、いま取り組むべき問題はそこじゃない。自在に操れる単語の数と表現の幅を増やすこと。
いま取り組むべき問題だって?
川面に映る自身の影法師に向けて、アキラは苦い笑みを浮かべる。俄かに活力と気力が減退し、骨の髄まで染み込む疲れを覚える。結局、すべては現実逃避じゃんか。何をすべきかも、どうしたいのかもわからずに、なんら見通しの立たないこの煉獄のような生活の中でじわじわと命と時間をすり減らすだけの――やめろ、それ以上考えるな。絶望の毒が全身に回って、二度と立てなくなるぞ。
リランの声が憂鬱な物思いに割り込む。
「ハス フボオェスト ズュオ マーメラ?」で、きみの記憶はどんな塩梅だい?
周囲で笑いが起きる。
最早それだけでジョークと化しつつある、恒例の質問だ。地理の勉強中にリランから初めて出自を問われたとき、アキラには言葉が不足していた。二度めに問われたとき、言葉の持ち合わせは充分にあったが、茶のローファーと冷たい男の姿が脳裏をよぎった。あの夜の会話を思い、あの男が抱いているはずの疑惑を思った。
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