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【内なる怒り】




 相手がこの男でなければ、アキラは言語能力の限りを尽くして洗いざらいぶちまけていたかもしれない。けれども、男の目は冷たすぎ、その笑みも冷たすぎた。

 頭の隅が警告を送って寄こす――こいつは信用できない。この人身売買野郎からは、東京の街角でたまに見かけた輩と同じ匂いがする。真実を語れば、いま以上のトラブルを呼び込むことになるぞ。

「ホウヴァ ドゥ ズュ シャンダネイン ネウト?」冷たい男が繰り返す。

 アキラは演技力を総動員して困惑の表情を浮かべる。

「ジージン、プラク?」もう一度、お願い。

 男がゆっくりと、みたび繰り返してから、アキラはどもりがちに答える。

「ディー、ディム……らたー……」

「ズュオ ラター? ドゥ ズュオ ラター オブティネレ ネウト スコウフ?」父親? きみの父上がこの履き物を入手したのか?

「あー、ディー……ディー……」

「ホウヴァ エスト ズュオ ラター?」父親はどこにいる?

「らたー……ねい……ねいほうゔぁ」

「ホッフェスト ズュ メナイティ ネイホウヴァ」どこでもないとは?

「デオルク――ネー、ど……ど……どうさー」

「ドウサー? ズュオ ラター ドゥ ドウサー?」死んだ? 父親は死んだのか?

「ジィル、セイオアール」はい、閣下。

 冷たい男はふと考えこむと、筒状に丸めた厚い紙を懐から出して、テーブルの上に広げる。世界地図だ。リラン先生のおかげで、アキラは、この世界が植民地競争の黎明期にあることを学んでいる。判明している各大陸と各国とそれぞれの主要都市の名を諳んじることもできる。が、それをおくびにも顔に出さない。ここでもまた演技力を総動員して、興味深そうに手書きの精巧な地図をしげしげと見る。まあ、興味深いのは事実だ。

 冷たい男が尋ねる。

「ホウヴェスト ドゥ ズュ バイネイン ファム?」きみはどこから来た?

 アキラは地図の上で視線をさ迷わせてから、かぶりを振る。

「ディー……あー、ネイ、グノウゼリ」知る、ない。

 その後も質疑応答は続くが、内容が少しでも複雑になるとアキラの理解力と返答能力が著しく低下するのを見て、冷たい男はとうとう質問を切り上げる。アキラを探るように見つめてから、片手を挙げてローブの女に合図する。女がテーブルを回り込んでアキラのすぐ横に立ち、その額に手を添える。女は若く、美しい。異性に触れられた経験のないアキラはどぎまぎする。たとえ相手が、対面の男に負けず劣らずの冷たい目をしていても。女がすぐに手を離し、「ネー、ワメンダレア」と何事かを男に報告する。

 お開きの気配を感じ取って、アキラはもう一度、篠原、小林、成田の三人について尋ねる。

 今回も返答なし。

 冷たい男と冷たい女が退出し、アキラは中庭に戻される。

 赤パンを手にリランが怪訝そうに尋ねる。

「ホッフ ドゥ カバイラット?」何があったんだ?

「ネイセシス スパサラシス」特別なことは何も。

 アキラはむっつりと内省に沈む。ぼくはたった今、千載一遇の好機をフイにしたのだろうか? それとも、罠が閉じてしまう前に上手く逃げおおせたのか?

 答えは出ない。

 真夏日になった三〇日めの昼、アキラはトイレで襲われかける。

 この世界のトイレ事情はお寒い限り。選択肢の一つは、中庭の隅にあるトイレ小屋だ。小屋の中には成人男性五人が並んでかけられる木製の長いベンチがあり、そこに五つの穴が開いている。仕切りも何もないベンチに下半身丸出しの成人男性五人が並んで座っているのを目撃して以来、アキラは選択肢その二を選ぶようになっていた。より開放感のある、しかしいくらかプライバシーを確保できる、野外トイレだ。土木工事の現場からほど近い川辺の茂みがそれで、大きいほうは、四方をほぼ藪で囲まれた穴に向けてする。小さいほうは立ち木の栄養にしてやるか、川に向けてする。中には、大きいほうを魚の餌にする者もいる。

 その日の昼休憩で、アキラはいつもの木に栄養を与えてやる。そして振り向くと、首輪の男の一人がすぐ目の前に立っている。初日にアキラを〝チェーシェン〟と呼んだ中年の男だ。それ以来、敵意のこもった目を向けてくるだけで、特に実害はなかったのだが、どうやらここにきて、関係を一段階進める気になったらしい。

 男が刺々しい口調で言葉を吐き出す。知らない表現がふんだんに盛り込まれているものの、脅し文句なのは明らかで、脅しだけで済ませる気がないのも明らか。その堅く握られた拳と澱んだ瞳が、今ここでケリをつけてやる、と告げている。

 暗く澱んだ茶色の瞳を見つめ返しているうちに、アキラの胸中に負の感情がむらむら込み上げてくる。

 頭が沸騰しそうなほどの憤怒。

 アキラは、自分が何に向けて激怒しているのかわからない。クソまみれの異世界、篠原の死、現在の境遇、目の前の悪意の塊――どれでもあり得える。たぶんきっと、積もり積もったすべてに対してだろう。

 あらゆる不満が絶叫している。何かを思い切り殴りたい。めちゃめちゃに壊してやりたい。

 例えば、こいつを。

 勝てるとは思えないが、一発かますくらいのことはできそうだ。この世界の人間の例に漏れず、こいつも背が高い。首輪の男たちにしろ、警備兵にしろ、そして早朝や日暮れ時にすれ違う市民にしろ、現代日本の若者並みの体格の者が多い。警備隊長の一人のように小柄な者もいるが、少数派だ。たいていの者は、身長一七〇センチ足らずのアキラよりも上背がある。このレイシスト野郎など、一〇センチほど高い。その上、体重も向こうのほうがある。でも、一発くらいなら……

 アキラの怒りに気づき、男が歪んだ笑いを浮かべる。目が小馬鹿にしている。

 それが試合開始のゴング。

 そして始まりもしないうちに終了する。

 とりわけ背の高い人影が、アキラとレイシスト野郎のあいだに立ち塞がったのだ。白に近い金髪――同房のミハイ。感謝より欲求不満が先に立つ。アキラは勝負に水を注されたことに不満を覚え、不満を覚えている自分自身に不満を覚える。おい、頭を冷やせ。おまえはテストステロン過多のエテ公か?

 対戦相手の不満はアキラの比ではなく、ミハイに食ってかかる。そこへ今度は、警備兵が登場して事態に介入し、簡単な事情聴取ののち、レイシスト野郎を連れ去る。

「ザンシャン」アキラはかすれ声で言う。

「ネイセシス」とミハイ。大したこっちゃない。

 この一幕を除くと、日々は平穏だ。訓練だか戦争準備だかで駆け回る騎兵や歩兵の一団を度々目にするが、周囲の空気はむしろ弛緩している。警備兵たちにも緊張の色は認められない。




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