【本と冷たい男】
昼休憩が終わる前に、もう一つ尋ねる。
「クイ エスト ズュ?」きみは誰なんだ?
「リラン」
「ワドゥ?」そして?
リランが説明し、アキラはまたもや理解不能に陥る。
なんにしろ、リランは不思議なやつだ。ただの囚人/奴隷とは思えない。分野を問わず、質問すれば即座に返答があり、一つ訊けば一〇答えてくれるところから、知的な青年だと察せられる。
加えて、リーダー格とまではいかないまでも、明らかに周りの男たちから一目置かれている。彼らは、自分の息子や孫の年代のリランに対して、丁寧な物腰を崩さない。そこには敬意と礼節がある。
夕食の終わり際に見られる一コマが典型的。一人または数名の男がやって来て、リランに声をかける。リランがロフト語でもリュシナリア語でもない言語で短く何か言う。言われたほうは自分の手の甲に接吻し、リランに謝意を表して立ち去る。この場面を初めて目にしたとき、今のはなんのかとアキラは尋ね、複雑な概念を説明されるといつもそうなるように、理解不能に陥った。
知性と教養と周囲から向けれる敬意――まったくもって不思議なやつだ。やんごとなきご身分の子弟か何かなのだろうか? そしてヘマをやらかしてここに?
アキラは次第に同房のほかの三名、ここでは若い部類のミハイ、ずんぐりむっくりで無口なニムト、ヘルター爺さんと親しくなり、ほかの男たちからも概ね受け入れられる。リランが仲良くしているのなら悪いやつじゃない、というわけだ。それでも罵倒らしき文句を浴びせてくる者が一定数いるが、語学教師・兼・保護者のリランがひと言いうと、たちどころに場が収まる。一時的には。
そんなリランの影響力は警備兵にも及ぶ。
その影響力を目の当たりにしたのは、一四日めの朝食でのこと。三日置きに交替する警備隊長の一人が、分厚い書物を数冊、リランに手渡したのだ。首輪の男たちに私物などという贅沢品は許されていない。持ち物といえば、四日に一度支給される着替えとぼろぼろの靴くらいのもので、その靴にしても、履いている者は半数に満たない。書物の貸与もしくは謹呈は、かなりの特別扱いを意味する。リランが何者であれ、こうして二冊の叙事詩風の書物と、一冊の辞書がアキラの手元にやって来る。この世界で初めて目にする本だ。
リュシナリア語で荒く印刷された革装丁の本が教材に加わったことで、言語学習の深度が劇的に増す。冒頭の一ページを読むのに二日もかかったが――そして辞書を引くのにもいちいち苦労させられたが――リランに言わせると、アキラは呑み込みが速い。自分でもそう思わないでもない。五ページ、一〇ページと読み進むにつれ、リランの手を煩わせる頻度が減り、一人で消化できる文章量が着実に増えいている。そして四〇ページほど読んだとき、偉人列伝か何かだと思っていたこの本が、実は異世界版の聖書の類だと気づく。根っからの無神論者のアキラには、神がどうの精霊がどうのという挿話は眉唾もいいところだが、登場人物である聖者・英雄・英傑・戦士・犯罪者たちの波乱万丈の人生模様を大いに楽しませてもらっている。とはいえ、娯楽皆無のこの環境下では、洗濯機の取り扱い説明書でも大いに楽しめただろうけれど。
そして季節が移ろい始める。
日に日に気温と湿度が上昇し、日照時間が伸び、天気が崩れることが多くなる。そして雨の強い日は土木工事を免除される。というわけで、首輪の男たちは寝て食って喋るだけの休日を喜び、アキラは寝て食って喋るだけの休日を恐れる。肉体を酷使していないと、余計なことを考えてしまう。自分の現状を。はぐれてしまった成田と小林のことを。なかんずく篠原が射られた場面を。あの鈍い音。鮮血。そして心が折れてしまいそうになる。できることといえば、言葉の勉強に身を入れることだけ。まだまだ拙い読解力による、活字世界への逃避だけ。
二四日めの夜、珍客が現れる。
アキラは警備兵の一人に夕食の場から連れ出され、普段は立ち入り厳禁の詰め所に通される。粗雑な木のテーブルの向こうに、玩具のような銀貨一〇枚でアキラを売った、あの冷たい目の男。その背後には、灰色のローブをまとった若い女。
「マーマイレイン、フェラジ」こんばんわ、きみ。
冷たい男が薄い笑みを浮かべて言い、片手で真向かいの席を示す――座れ。アキラは椅子に座る。怖気と緊張がその氷点下の指先で背骨を撫でるのを感じる。
「フヴオ エスト ズュ?」調子はどうかな?
「ディスト フィニス、セイオアール」良好です、閣下。
「ホウ、ズュ フュイ エスーク ランゲシャ」おや、言葉を喋っているね。
「ルーズィル バイタン、ジィル」少しだけ、はい。
アキラは意を決して言葉を継ぐ。
「キューザ ズュ ツェレン マ アビュータン ディム サン フリーオウ? イスタド トス?」ぼくの友達がどうなっているのか教えていただけませんか? あの三人のことを?
凝視が返ってくる。そして冷たい男が、膝の上に乗せていた布袋を、捧げもののように恭しく両手でテーブルの上に置く。時間をかけて、ゆっくりと中身を出す。
一足の、オレンジがかった茶のローファー。
ぼくの靴。
「エスト ズュ レカノイス ネウト?」これに見覚えは?
「ジィル、セイオアール。ダゼェスト ディムナ」あります、閣下。ぼくの靴です。
冷たい男がまたうなずく。「ディー ドゥ ナシティア イオス ヌーンク ダズ ディム マニユー ドウケイニイ ドゥ エイガン ネウト エセリ。ホウヴァ ドゥ ズュ シャンダネイン ネウト?」部下がこの芸術品を勝手に自分のものにしていたことを、つい今しがた知ってね。きみはどこでこれを手に入れた?
ローファーが取り出された瞬間から、アキラの頭は猛烈な勢いで空回りしている。これを好機と見なすべきなのか、それとも災厄と見なすべきなのか。成田の言っていたことが思い出される。現代の持ち物を〝おれらの立場を証明して、保護と活動の足がかりを得る物証〟として使えるかもしれない〟。
埋めた鞄。もしあの場所を教えたら? 自分がこことは異なる世界から来たことを証明したら? そしたら幾許かの自由を勝ち取ることができるだろうか? 人権のない虜囚の身から、人権のある一個の人間に? このアイディアは、これまでも考えないではなかった。意志の疎通と信憑性の壁が立ちはだかっていなければ、とっくに試していただろう。今、その壁は低くなっている。言葉のほうはまだぎりぎりのラインだが、言わんとすることは信じてもらえるはずだ。なにせ相手は、この世界には存在しないであろう合成皮革と精緻なラバーソウルの靴を、物証を、すでに手にしているのだから。男がどのような想像を膨らませているにせよ、興味と疑惑を掻き立てられているのは確実だ。だからこいつは、ここにいる。いける。今ならいける。
アキラは胸の中で素早く、口にすべきせりふをリュシナリア語で作文する。言葉の奔流が咽元までせり上がってくる。今にも溢れだしそうだ。
これは好機でいいのか?
先日、初の星5評価(10ポイント)をいただきました!とても、とても嬉しいです。どこのどなたかは存じませぬが、あなた様の空で幸運の星が輝かんことを。
現在、主人公は絶賛奴隷化中で銃の『じ』の字もありませんが、ここからの這い上がりとガンアクションに向けて、50話までの3連投、一息に駆け抜けますので、引き続き応援よろしくお願いいたします。




