19.公爵令嬢ディアナの警戒
〈公爵令嬢ディアナ視点〉
「……あら、教科書が破られているわ」
身の回りのものが紛失したり、壊されているといった出来事が起こり始めたのは、レイモンド殿下が卒業され、私が進級した年の秋頃からだった。
私が王子の婚約者であると聞きつけた何者かによる、低俗な嫌がらせが始まったのだ。
こういうのは普通、ヒロインと王子の仲に嫉妬した「悪役令嬢」が、嫌がらせを主導する形で起こるものだろう。
だが、私は異世界転生者。ヒロインを羨む気持ちなど微塵もないし、いじめを働く予定も毛頭ない。そのせいで物語の因果が歪んだのか、あろうことか私の方がいじめの標的に据えられてしまったらしい。
幸いにも稚拙ないたずらばかりで、堂々と構えている私からすると、即座に対処しなければならないほどの実害はなかった。
アレクシス殿下は、順調にヒロインとの仲を深めているという。
狭い学園内で隠し通せることなど、何一つないと思った方がいい。政経科に婚約者や縁者を持つ令嬢たちから、殿下の教室の様子については、足を運ばずとも十分すぎるほどに情報が入ってくる。
ニナ・ボーシャ嬢は、瞬く間にクラスの男子生徒たちを虜にした。
その勢いは政経科に留まらず、騎士科や魔導科の生徒たちをも惹きつけ、今や淑女科にさえ彼女を慕う者がいるという。
男女を問わず彼女の周囲に集い始める様を、私は『ヒロイン』のヒロインたる所以として、ただ静観していた。
アレクシス殿下はいの一番に彼女の親衛隊の仲間入りするものとばかり思っていたが、随分遅かった。
けれど、それも遂に陥落。放課後の教室で、二人きりで語らう姿を私と懇意にしている令嬢が目撃している。
扉を開け放していたのは、せめてもの後ろめたさの表れだったのかもしれない。
だが、王位継承権を持つ第二王子が、特定の女性と密室に近い状況で過ごすなど、格好の醜聞の種でしかない。
男爵令嬢であるニナが、将来の王族の妻になると考える者など、この学園には一人もいない。ゆえに、あれは王子の不貞であると、みな認識したところだろう。
冬の寒さも和らぎ、最高学年となる三年生の春を迎えようかという頃。
桃色の柔らかな髪を二つに結い上げた少女に、私は呼び止められた。
「テトラ公爵令嬢様、今、少しお時間よろしいでしょうか」
背後に控えていた、親しい侯爵家と伯爵家の令嬢が一斉に身構える。私は余裕をもって、「いいのよ」と二人を手で制した。
「構いませんわ」
「立ち話でもよろしいですか?」
「ええ。あちらの隅でお話ししましょうか」
乙女ゲームのヒロインといえば無作法が相場かと思っていたが、それなりのマナーは弁えているようだ。
私は同行していた令嬢たちに、先にカフェテリアへ向かうよう促し、人影のまばらな中庭へ移動した。
ここなら人目はあるが、会話の内容までは届かぬ距離を保てる。
「まずは、突然のご無礼をお許しください」
ぺこりと一礼するニナは、やはり最低限のマナーは理解しているらしい。「いいえ、構いませんわ」と、私は少し首を傾げて微笑を返した。
「それでお話とは?」
「……ディアナ様の婚約者様のお話です」
「……私の婚約者のお話、でしょうか?」
「ええ、内密ということは存じ上げていますが、とあるご縁で耳にしまして」
ニナ嬢は「これはあのお方から頼まれたことではありません」と前置きした上で、私の目を真っ向から捉えた。その大きな茶色の瞳は、恋心ゆえか、あるいは情熱か。爛々と燃えるような光を宿していた。
「アレクシス殿下になぜあのような態度をなさるのですか?」
「何のお話です?」
「殿下が贈り物やデートのお誘いなど、あれほど手を尽くされているにも関わらず、あなたはいつも儀礼的な、冷たいお返事ばかり。婚約者なんですよね? 殿下の何がご不満なんですか!」
胸の前で両手を組み、祈るような仕草で迫ってくる。
その様は、なるほど。
噂に違わぬ『聖女』そのものだ。
小動物のような彼女にこうも潤んだ瞳で見上げられては、傍目には私が彼女を虐めているように映るに違いない。
なぜ男爵令嬢のあなたが、私と殿下のやりとりをそこまで詳細に把握しているのか。それこそが大問題だと思ったが、今はあえて追及せずにおいた。
「何のお話か存じませんが、私は公爵令嬢として、負うべき義務を完璧に果たしている自負がございますけれど?」
「殿下はあなたと仲を深めようと、懸命に努力されています。それなのに、あなたはいつもつれない態度。殿下は原因がわからず、ひどく心を痛めておいででした……わたしも理解しかねます。いったい何がご不満だと言うのですか!?」
アレクシス殿下からどのような泣き言を聞かされたのか知らないけれど、部外者の彼女にここまで言わせるほど、あの殿下は私を「冷徹な婚約者」として宣伝しているのだろう。
自分の浮気を正当化するために、私を悪役に仕立て上げる――。
なるほど、これぞヒロインに守られる『傲慢王子』のやり口だわ。
感情の高ぶりとともに、いっそう声を上ずらせるニナに対し、私は優雅に首を横に振ると、あえてこれ見よがしに、「はぁ……」と深く重いため息を零してみせた。
「先ほども申し上げたとおり、私は公爵令嬢として適切な振る舞いをしております。それに――そもそも、ニナ嬢には関わりのないことではありませんこと?」
私はあえて氷のように冷めた声を出す。
彼女が私を「悪」だと思えば思うほど、物語の定石どおりに事態は進むはず。
(……ああ、早く婚約破棄をして、この茶番を終わらせたいわ)
「ですが……ですが……もしかして、やっぱり、他に好きな方がいらっしゃるのですか!?」
「他に好きな方? 本当に何のお話ですの……?」
唐突な言葉に、思わず眉をひそめた。
まさかあの王子、私との婚約を解消するために、私の方にまるで瑕疵があるかのように話を捏造し始めたのだろうか。
私は淑女科に身を置き、学園内では基本的に女性としか接していない。
他に好きな相手がいるのは、客観的事実として殿下の方であり、断じて私ではないわ。それはまさに目の前のこの状況が示している、自明の理だ。
「殿下との関係については、そもそも何故ニナ嬢からご指摘を受けなければならないのか不可解ですが……これ以上の言いがかりを続けられるのでしたら、さすがに然るべき対応をとらせていただきますわよ」
今度は鋭く彼女を睨み返す。
そう、本来、部外者であるあなたがこの件に口を挟むこと自体、あってはならない不敬なのよ。
ニナ嬢はその言葉に、明確に怯んだ。
さきほど自ら「殿下に頼まれたわけではない」と断言していた通り、独断で私の元へ押しかけてきたのだろう。
むっと唇を尖らせ、不満を全身で体現したような様子のまま、「言いたいことは言いました。失礼します!」と、逃げるように立ち去っていった。
一体何だったのかしら……という困惑の直後、ある種の既視感に伴う、妙な納得感が胸に落ちた。
(これよ。ヒロインが『真実の愛』を掲げて、冷徹な悪役令嬢に立ち向かう……)
これこそが私が読み耽った『断罪イベント』へと続く、様式美とも言える前兆だわ。
私は物語の強制力に驚きながらも、想定していた筋書きから大きく外れずに順調に事が進んでいることに密かな安堵さえ覚えていた。
「さあ、婚約破棄して頂戴。私の完璧なシナリオ通りに!」
ついに訪れた卒業パーティー。ヒロインの糾弾。王子の沈黙。
役者は揃った。あとは「断罪」を待つだけ――のはずだった。
次はいよいよプロローグのあの場面、それぞれの結末へ――。
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