外伝 千明 4 ここに来た理由…
時間がゆっくり流れていく、ゆっくりゆっくりと。頭の中から浮かび上がってくる思い出はどれも幸せだったあの頃の記憶ばかりだ。
徐々に徐々に昔から振り返る………。
そして、最近の記憶は『うるさい!』と言われたあの時の出来事。味噌汁は床を流れ、私は痛みを感じ、父はただ部屋へと戻り、私はお母さんが使っていた布団を抱きながら寂しく眠る………。
今までの幸せな記憶という暖かい色をあの一瞬の出来事が、とても濃い色で塗りつぶしてくる。
塗りつぶされた新たな色は、男の声と共に漆黒となり、それが私を思い出という過去を隅から隅までかき消してくる。
逃げたい、ここから消えたい………
私は床に座り込み、顔を下に向けた。腕は男に捕まれたまま、上に手を挙げる形で静止した。
「おい、死んだのか?」
男は掴んでいた手を離すと、私の腕は下に落ち、冷たい床に触れた。解放された腕を足の前で抱え、体育座りの姿勢で体を丸めた。
男は『はぁ』と息をつきながらゆっくりしゃがみ込むと、私の髪を掴んで無理やり顔を上に向けさせた。
「今までに何人もガキを相手にしてきたが、大抵の奴は現実を知ると暴れるんだ。意味は分からなくても、怖い、嘘だ、親が見捨てるはずがないとか。まぁ、理由は様々だったな。さっき、お前は抵抗してきただろ、それの延長みたいな感じだ」
私の髪を引っ張りながら、男は話を続ける。
「だがな、お前みたいに事実を知った後に何もしないのは初めてだな。小二だったよな?このこと以外でなんか親にひどいことされていたのか?」
私は男の言葉を無視して、目をつぶり最後の確認をした。
「お父さんが私を捨てたって本当?」
私がこう質問すると、男は引っ張るのをやめ、無視かよと言いながら私の正面に座り込んだ。そして、ゆっくりと顔を上下に振り、低く答えた。
「あぁ、事実だ。だから、こうして俺はお前の前に立っている」
「どうして、お父さんは私を捨てたの?」
「さっきも言ったろ。お前の父は俺たちにお金を借りていたんだ。でっ」
「なんで、お父さんはあなたたちにお金を借りたの?」
男は少しイラついた表情になったが、再びため息をついて私の質問に答えた。
「ったく、人の話は最後まで聞け。お前の父は会社を経営していてな。お金を借りながら事業っつう、まぁあれだ、色んなことをしてお金を稼いでいたんだ。その借りた金の大半は俺らが預けた金だったんだ。俺らは、色んな会社にお金を貸して、利益が出た分の20%をもらう契約をたくさんしててな。その中に、お前の父親の会社もあったってわけだ」
男は少し間を置き、腕についている時計を見てから、再び口を開いた。
「俺たちだって、成功してほしくて、お金を貸していたわけだ。利益が出たほうが儲かるからな。だが、お前の父の会社は、ある日から急に失敗し続けたんだ。その結果、会社は破綻しかけ多額の借金を背負った。そこで俺たちは提案したんだ。返せなくなったお金の代わりにお前の娘を渡せば、帳消しにしてやるってな」
話が長いし、言葉もよくわからない。けど、お父さんが借りていたものを返せなくなったっていうのが悪いことというのは分かった。そして、私をお金と交換することを決めたことも。
「なんで私なの?」
「俺たちは金はあるが、人手が少なくてな。集めてはいるんだが、質がいい人間を欲しているからなかなか集まらないって感じだ。だから、育てることにしたんだ」
「育てる?」
「あぁ、お前みたいなガキを集めて俺らの役に立ってもらおうって考えたんだ」
「私、何もできない」
「できなくて当たり前だ。これから、教えるわけだからな」
「お父さんは、私よりもお金が大事だったってこと?」
「そうかもしないが、比べる対象にずれがあるかもな」
私はどういうことと尋ねた。
「あの会社はまぁまぁ大きい。それなりに社員もいた。確か、人数は200人くらいだ。会社がなくなればそいつらも途方にくれることになる。言うなれば、そいつらのこれからの人生を娘一人明け渡せば回避できる状況だった。お前の父親は、娘よりも200人を優先したともいえるし、せっかく作った会社を潰したくなかったとも言える。正直なところ、あいつにしか分からんと言わざるを得ない」
理由を聞かされた私は、胸の奥がさらに重くなっていくのを感じた。理由のほとんどは分からなかった。けれど、少なくとも分かることもあった。私一人が犠牲になったおかげで、お父さんの会社と200人は助かったということ。
よかっ………
そう思った瞬間、胸にぽっかりと大きな穴が開いたような気がした。それと同時に私とお父さんとの繋がりに亀裂が入る音がした。
男が急に耳を抑え、顔を壁の方に傾けた。男は分かった分かったというと私の顔を見た。
「さっきは悪かったな、俺も時間がないんだ。早く連れて行かねぇとお前を薬で従わせるか、胸についている爆弾で殺すしかなくなるんだ。今までそれで面倒くせぇことがあってな、今度は力づくで説得しようとしたのがお前なんだが、結局、時間が掛かっちまった。ったく、ガキはよくわからん。いい方法はないもんかねぇ~」
男の声は聞こえていたが、私はどうでも良くなりただ無気力なままそこに座っていた。
「泣かないのも、お前が初めてだ。賢いんだが、ただ感情が薄いだけなのか、よくわからん奴だが、まぁいい。結果オーライってやつだ」
男は何度も頭をかきながら言葉を言い続ける中、私はもう、やめてよ、もういいでしょ、さっさと殺してよと思っていた。
「俺が言うのもなんだが、とりあえずこれだけは言っておくぞ。さっきの話しは難しすぎたな。今度はちゃんと、ガキのお前にもわかりやすいように伝える。
いや、失礼。確かに歳は幼いが、ガキではなかったな」
男は両手を私の肩に置いた。
「生きろ。以上だ」
「えっ?」
男はそれ以上何も言わなかった。その場から立ちドアを開けて、首を向こう側に一瞬傾けた。こっちに来いという意味だろうか。
私の空っぽになった頭に一つの命令が下された。
『生きろ』
よくわからない。この人がいい人なのか、悪い人なのか。信じていいのか、そうでないのか。これから、何が起きるかもわからない。けど、もう一度、父に会いたい。そう思った。
そして必ず………




