第9話「碧落の亀裂」
剥き出しの言葉が落とされた調律室は、真冬の湖底のような冷たい静寂に包まれていた。
アイラの耳の奥で、自身の心臓が激しく脈打つ音だけが反響している。
涙で濡れた頬に触れているユージーンの指先は、失血特有の冷たさを宿しながら、皮膚の深層には焼け付くような熱を秘めていた。
欲している、と彼は言った。
防衛騎士団のエリート小隊長が、侯爵家の嫡男が、なぜ自分のような下位貴族の娘を求めるのか。
幼馴染という名の残滓に縋り付いているのは、自分だけではなかったのか。
魔石の同期によって流れ込んできた彼の生々しい絶望が、アイラの胸骨を内側から締め上げる。
喉の奥がきゅうと引きつり、子爵令嬢として身につけてきた無機質な礼法の仮面が、内側から音を立ててひび割れていく。
「……何を、おっしゃっているのですか」
アイラは震える唇から、かすれた声を絞り出した。
ユージーンの指先から逃れるように、わずかに首を引く。
だが、その微小な拒絶の動作が、青年の瞳の奥に眠っていた暗い炎に油を注ぐことになった。
ユージーンの眉根が険しく引き結ばれ、藍色の双眸が痛烈な険しさを帯びて細められる。
「わからない、とでも言うつもりか」
低く、地を這うような声音だった。
ユージーンは包帯を巻かれたばかりの左腕を庇い、断裂した筋肉の痙攣に耐えながら、強引に身を起こした。
強制同期による魔力の過剰供給が、本来動くはずのない重傷の肉体を無理やり覚醒させているのだ。
作業机の天板がきしみ、彼の上体がアイラへと覆いかぶさるように迫る。
外された隊服の襟元から覗く首筋に、青い筋が怒りと苦痛のために浮き上がっていた。
「お前はいつもそうだ。都合が悪くなると、貴族の礼法という殻に閉じこもり、俺の言葉を嘲笑うように聞き流す。……なぜこれほど石の波長を乱しているのか、その理由を本当に理解していないとでも言うのか」
「理解できるはずがありません!」
アイラは反射的に叫んでいた。
握りしめていた彼の手から自らの指を引き抜き、胸の前で固く組み合わす。
爪が手の甲に食い込み、鋭い痛みが走った。
その痛みにすがりつかなければ、彼の放つ圧倒的な熱量に呑み込まれ、理性が砕け散ってしまいそうだった。
「私と貴方様は、もうあの頃の子供ではないのですよ。貴方様は侯爵家の家名を継ぎ、国の防衛を担う英雄です。私のような、日銭を稼ぐために油にまみれて石を削る下位貴族の娘が、気安く踏み込んでいい領域にはいらっしゃいません。……距離を置くのは、当然のことではありませんか」
「それが理不尽だと言っているんだ!」
ユージーンの怒声が、狭い部屋の石壁を震わせた。
彼は荒い息を吐き出し、健康な方の右手を激しく振り上げて、机の縁を叩いた。
鈍い衝撃が走る。
彼の呼吸は乱れ、青白い額には新たな脂汗がにじみ出していた。
「身分だと? 家名だと? そんなくだらないもののために、お前は十年間積み重ねてきたものをすべて捨て去るというのか。俺がどれだけの覚悟で剣を握り、どれだけの血を流してあの地位をもぎ取ったか、お前は一度でも考えたことがあるのか!」
「……え?」
予想もしなかった言葉の刃に、アイラは息を呑んだ。
ユージーンの瞳が、血走るほどに見開かれている。
その奥底にあるのは傲慢さではなく、飢えた獣が自らの尾を噛みちぎるような、痛々しい絶望だった。
「俺がなぜ、危険な討伐任務ばかりを志願したと思う。なぜ、周囲の貴族たちに媚びを売ることもなく、軍部での武功だけを積み重ねてきたと思う。……すべては、誰にも文句を言わせない発言権を得るためだ。侯爵家の看板など関係なく、俺自身の力で、俺の望むものを手元に留める権利を得るためだった」
ユージーンの唇が、悔しげに震えていた。
彼は乱暴に自らの胸元を掴み、そこにぶら下がる青い石を握りしめた。
銀枠が肉に食い込むほど強く握られた手から、青い光が指の隙間を縫って溢れ出る。
「それなのに、遠征から戻った俺を待っていたのは何だ。冷え切った敬語と、他人のような視線と、完璧に作られたお辞儀だけだ。お前は俺の顔を見ようともせず、無事を喜ぶ素振りすら見せなかった。……あれほどの拷問が、この世にあると思うか」
「そんな……私は、ただ……」
「ただ、何だ。身分を弁えたとでも言うのか。俺の前では一言も本音を口にせず、工房の職人には心を許して笑いかける。あいつの淹れた茶を飲み、あいつの冗談に顔をほころばせる。……その姿を視察の現場で見せつけられた俺が、どんな思いで背を向けて立ち去ったか、お前には想像もつかないだろうな」
ユージーンの声が、かすれた。
彼の全身が、激しい感情の奔流に耐えかねて震えている。
アイラは言葉を失い、ただ目の前の青年を見つめることしかできなかった。
彼が抱いていたのは、冷徹な軽蔑などではなかった。
自分に向けられていたのは、見下すような哀れみなどでは断じてなかったのだ。
彼は、傷ついていた。
自分が身を守るために張り巡らせた他人行儀な態度という名の針によって、誰よりも深く、血を流すほどに傷ついていたのは、彼の方だった。
相手が敬語を望んでなどいなかったこと、自らが築いた壁がこの人を死の淵まで追い詰めたのだという事実が、激しい後悔となって胸を打つ。
だが、その事実を理解したとしても、アイラの胸の奥底に沈殿していた痛烈な疑問は、未だ消え去ってはくれなかった。
◆ ◆ ◆
沈黙が再び部屋を満たし、二人の荒い呼吸音だけが交錯した。
ユージーンは息を整えようと試みるように、目を閉じてうつむいた。
肩で息をする彼の姿は、痛ましいほどにやつれて見えた。
数日間の不眠不休の軍務、そして先ほどの傷口の激痛。
極限まで摩耗した肉体と精神が、いま辛うじて理性の糸一本で繋ぎ止められているのがわかる。
アイラは自身の胸元に手を当てた。
服の下で脈打つ魔石は、ユージーンの吐露を受け止め、より深く、重い青へと色を変えていた。
彼の激情は本物だ。
幼馴染としての情愛を超えた、執着に近い熱情がそこにあることは、もはや疑いようがなかった。
けれど、だからこそ、解せない疑問が残る。
それほどの想いを抱えながら、なぜ彼は、あの夜会の場で他の女性の隣に立っていたのか。
なぜ、街中を駆け巡るあの決定的な噂を、否定もせずに放置しているのか。
「……ずるいです、ユージーン」
ぽつりと、アイラの唇からこぼれ出た。
丁寧な敬語の殻が完全に砕け散り、剥き出しの感情が声となって響いた。
その声は小さかったが、静まり返った部屋の中では、鋭い刃のように明瞭に響いた。
ユージーンがゆっくりと顔を上げる。
その瞳に、微かな戸惑いの色が浮かんでいた。
「ずるい……? 俺が、か」
「ええ、そうです。とても卑怯です」
アイラは膝立ちになり、ユージーンの視線の高さまで自らの顔を持ち上げた。
視界が再び涙でにじみそうになるのを、強い意志で押し留める。
ここで泣いてしまえば、また何も言えずに終わってしまう。
彼が本音をぶつけてきたのなら、自分もまた、胸を焼き焦がし続けてきた醜い感情のすべてを、晒さなければ不公平だった。
「貴方は、私の態度ばかりを責め立てます。私が冷たい、私が逃げた、私が壁を作ったと。……でも、私にそうさせたのは、誰なのですか」
「アイラ……」
「私に何も言わず、遠い世界の住人になってしまったのは貴方です。国中の人々から称賛され、高位の貴族たちに囲まれ、眩しすぎる光の中に立つ貴方を前にして……私が、昔のように笑いかけられるとでも思ったのですか!」
アイラの胸の奥で、張り詰めていた最後の糸が千切れた。
何年間も、誰にも明かさず、一人で抱え込み、引き出しの奥に封じ込めてきた想いの残骸が、濁流となって言葉に変わっていく。
二人の間で、魔石が激しく明滅し、青い燐光が二人の輪郭を鮮烈に浮き彫りにした。




