第10話「交錯する沈黙の行方」
調律室の天井を照らす青い光が、二人の影を石壁に大きく揺らめかせていた。
アイラは拳を固く握りしめ、ユージーンの藍色の瞳を真っ向から見据え続けた。
逃げないと決めた。
この男の糾弾に、ただうつむいて耐えるだけの時間は、もう終わりだった。
「貴方は、私の隣にいるレオン先輩を責めました。けれど、貴方の隣には誰がいたのですか」
アイラの声は、自分でも驚くほど低く、冷徹な響きを帯びていた。
ユージーンがわずかに息を呑み、眉を寄せる。
「あの夜会の場で、貴方の腕に手を添えていたのは誰ですか。会場中の貴族たちが祝福し、誰もが完璧なお似合いだと認めていた……あのアリアーヌ様との関係は何なのですか!」
「アリアーヌ様……?」
ユージーンの口から、困惑に満ちた呟きが漏れた。
まるで、全く関係のない異国の言語を耳にしたかのような反応だった。
その無垢な態度が、アイラの胸の痛みをさらに激しく煽り立てる。
「とぼけないでください! 街中がその噂で持ちきりです。ヴァレンティン公爵家とクロムウェル侯爵家の婚約が内定したと、騎士団の詰め所にも公爵家の使者が訪れたと、誰もが話しています! 王室の承認が下りるのも間近だと……!」
アイラは一気にまくしたて、肩を激しく上下させた。
喉が焼け付くように熱い。
言ってしまった。
自分がどれほどその噂に傷つき、どれほど嫉妬し、惨めさに打ちのめされていたかを、自ら白状してしまったのだ。
だが、後悔はなかった。
この事実を突きつけなければ、彼が自分に向ける熱情のすべてが、単なる身勝手な気まぐれにしか思えなかったからだ。
高貴な婚約者を確保した上で、かつての幼馴染にも都合のいい情愛を求めるような男であってほしくないという、最後の祈りでもあった。
だが、ユージーンの反応は、アイラの予想とは全く異なるものだった。
彼は信じられないものを見るように目を見張り、それから、凍りついたように動きを止めた。
数秒の完全な沈黙。
やがて、彼の薄い唇から、かすれたような、力のない息が漏れ出た。
「……婚約など、受けていない」
「え……?」
今度は、アイラが言葉を失う番だった。
ユージーンは首を小さく横に振り、額を手で押さえる。
その動作には、深い疲労と、途方もない呆れがにじみ出ていた。
「受けるはずがないだろう。……公爵家からの打診があったのは事実だ。父上も乗り気だった。だが、俺はその席で、即座に断りを入れた」
「で、でも、夜会では親しげに耳打ちをされて、貴方も頷いて……」
「あれは、公爵令嬢からの『この場では騒ぎにいたしませんが、後ほど父上を交えてお話しいたしましょう』という一方的な申し出を、会場の体面を保ちながら穏便に退けるための会話だった。周囲に聞こえないよう、冷淡に『受けて立つ』という意味でうなずいただけだ。……あの女が勝手に腕を絡めてきた時、俺は柱の影にお前のドレスの裾を見つけて、一刻も早く引き剥がそうと焦っていたんだぞ」
耳を疑うような言葉が、次々とユージーンの口から紡ぎ出される。
アイラの頭の中が、白く染まっていく。
完全な否定だった。
街中を駆け巡っていたあの確実視されていた噂は、何だったのか。
「使者が訪れたのは、縁談の辞退に対する抗議のためだ。俺はそれすらも突っぱねた。これ以上、外野から余計な圧力をかけられないよう、武功を立てて独立した発言権を得るために、あの無茶な北の坑道討伐を一人で引き受けたんだ。……すべては、その縁談を完全に叩き潰すための布石だった」
「そんな……嘘……」
「嘘をついて、俺に何の得がある」
ユージーンは自嘲するように唇を歪め、アイラを見つめ返した。
その藍色の瞳の奥に宿る光は、どこまでも澄み切っており、一片の濁りもなかった。
彼は本気だったのだ。
名門貴族同士の婚姻というレールを、自らの手で粉々に打ち砕いていた。
その代償として、自らの体を危険な戦場に晒し、死の淵を彷徨うほどの無茶を重ねていたのだ。
すべては、誰のためだったのか。
アイラの背筋を、冷たい衝撃が駆け抜けた。
「俺は……」
ユージーンが再び口を開いた。
その声音は、先ほどまでの激しい怒りとは打って変わり、酷く頼りなげに揺れていた。
「お前があの職人に心を奪われたのだとばかり思っていた」
「……はい?」
「あの男を見るお前の目は、柔らかかった。楽しそうに笑い、心を許していた。……俺の前では一度も見せなくなったあの笑顔を、あいつはいとも簡単に引き出していた。お前が俺との過去を捨て、あの男と共に歩む未来を選んだのだと……そう確信して、絶望していたんだ」
「な……何をばかなことを言っているのですか!」
アイラは思わず叫び、両手で自らの頭を抱えそうになった。
あまりの唐突さと、その内容の途方もない勘違いに、めまいすら覚えた。
「レオン先輩は、ただの仕事の先輩です! 親切で面倒見のいい同僚であって、異性として意識したことなど一度もありません! 妹さんへの贈り物の相談に乗っていただけです!」
「……妹の、贈り物?」
「そうです! 昔、貴方が教えてくれた東通りの美味しい焼き菓子の店を教える約束をしていただけです! それを……心を奪われただなんて、そんな突飛な思い込みを……!」
ユージーンがぽかんと口を開け、固まった。
歴戦の騎士として研ぎ澄まされた判断力を誇るはずの男が、まるで悪戯を見咎められた子供のように、間の抜けた表情を晒している。
部屋の中に、奇妙な沈黙が落ちた。
二人は互いの顔をまじまじと見つめ合った。
相手が自分を拒絶していると思い込み、絶望し、嫉妬に狂い、勝手に自滅しかけていた二人の人間。
そのあまりの愚かしさと、互いの致命的なまでの鈍感さが、白日の下に晒されていた。
「……じゃあ、お前は」
ユージーンが、かすれた声でつぶやいた。
彼の手がゆっくりと伸び、アイラの作業服の袖を、すがるようにそっとつまんだ。
「あいつのことが、好きだったわけではないのか」
「当たり前でしょう! 私が……私がずっと、誰の背中だけを追いかけてきたと思っているのですか!」
アイラは涙をぽろぽろとこぼしながら、叫んでいた。
もう、隠すことなど何も残されていなかった。
十年間、胸の奥底で育て続けてきた想いのすべてが、怒りと安堵の混ざり合った涙となって、頬を激しく濡らしていった。
胸元の対の魔石が、二人の感情の雪解けに呼応するように、これまでにないほど澄み切った、柔らかな青い光を放ち始めていた。




