第11話「零れ落ちた碧の沈黙」
叫び終えたアイラの喉は、熱い砂を飲み込んだようにひりついていた。
口から飛び出した言葉の重みが、部屋の冷たい石壁に反響し、自らの耳朶を容赦なく打ち据える。
誰の背中だけを追いかけてきたと思っているのか。
それは、十年間ひた隠しにしてきた自身の魂の核を、自ら抉り出して相手の足元に投げ捨てたも同然の告白だった。
工房の調律室に、真夜中の底のような静けさが降りてくる。
二人の間に漂っていた張り詰めた糸が、ぷつりと音を立てて途切れたかのようだった。
机の上の薬草湯の鍋からは、もう湯気が立ち上っていない。
冷え切った空気の中で、アイラの荒い呼気だけが白く濁って揺らめいていた。
頬を伝う涙が顎の先へと集まり、作業服の胸元へと一滴、染みを作って落ちる。
そのわずかな雫の落ちる気配すら、部屋中を満たす沈黙の中では恐ろしいほど鮮明に感じられた。
「……アイラ」
名前を呼ぶユージーンの声は、かすれ、微かに震えていた。
彼の大きな手が、アイラの作業服の袖からゆっくりと離れた。
だが、その指先は虚空へ戻ることはなく、迷うように彷徨った後、アイラの細い手首へと滑り落ちた。
包帯の巻かれた左腕をかばうように、彼はわずかに前傾姿勢を取る。
手首を握る彼の指の腹から、熱い脈動が皮膚を通して直に伝わってきた。
硬い剣だこに覆われたその感触は、先ほどまでの荒々しい怒りを失い、壊れ物を扱うかのように怯えた柔らかさを帯びていた。
ユージーンは信じられないものを見つめるように、藍色の双眸を大きく見開いている。
「お前が……俺の背中を、見ていた……?」
問いかける彼の声には、確信など欠片も含まれていなかった。
戦場で数多の魔獣を屠り、軍部の上層部すら沈黙させる若き英雄が、まるで路地裏で凍える子供のように頼りなげに瞳を揺らしている。
アイラは唇を噛みしめ、視線を彼の胸元へと落とした。
ボタンの外された隊服の内側で、銀枠の魔石が静かに、息を吸い込むように波打っている。
怒りでも絶望でもない、深い湖の底を思わせる穏やかな青。
その光が、アイラの胸元にある片割れの石と、寸分の狂いもなく同じ周期で脈打っていた。
「……気づかなかったのですか」
アイラは絞り出すようにつぶやいた。
一度こぼれ落ちた感情は、もう押し留めることなどできなかった。
手首を握る彼の手のひらの熱さに、全身の力が抜けていきそうになる。
「私がどんな思いで、貴方が戦場へ向かう報せを聞いていたか。どんな思いで、無事に戻られた姿を窓の隙間から見送っていたか。……貴方が遠くへ行けば行くほど、眩しくなればなるほど、私は自分の惨めさに押し潰されそうになっていたのです」
「なぜ、惨めになる」
「身分が違うからです!」
アイラは首を横に振った。
涙が再び溢れ出し、視界が歪む。
「貴方は侯爵家の跡取りで、私は名ばかりの子爵家の、日銭を稼ぐ職人です。昔のように名前を呼び、気安く話しかけることすら許されない世界に、貴方は行ってしまった。……私が側にいれば、貴方の輝かしい未来に泥を塗ってしまう。そう思うからこそ、私は他人のふりをするしかなかったのです」
言葉を吐き出すたびに、胸の奥底に溜め込んでいた痛みが溢れ出てくるようだった。
ユージーンは息を止め、アイラの言葉をその身に刻みつけるようにして聞いていた。
彼の手首を握る力が、じわりと強くなる。
痛むほどではない。
けれど、二度と手放さないという頑なな意志が、その硬い指先から痛烈に伝わってきた。
「泥を塗る、だと……?」
ユージーンの喉から、苦渋に満ちた呻きが漏れた。
彼は額をアイラの握られた手の甲へと押し当て、深くうなだれた。
彼の濡れた前髪が、アイラの指の背を撫でる。
「ばかなことを言うな。誰が泥で、誰が眩しいなどと決めた。……俺にとって、唯一の光はお前だけだったというのに」
「ユージーン……」
「俺が誰だけを見ているのか、どうして気づかない」
額を押し当てたまま、ユージーンが言葉を紡ぎ続けた。
その声は低く、かすれ、調律室の冷たい床へと染み入っていく。
「俺が遠征から戻るたび、一番に馬を走らせたのはこの工房の前の通りだ。広報紙でお前が怪我をしていないか、工房の資材記録にお前の名前があるか、そればかりを探していた。夜会に出たのも、公爵家との縁談を叩き潰すための武功を報告し、お前を連れ出すための地位を固めるためだった。……俺の行動のすべてに、お前以外の理由など一つも存在しなかった」
胸骨を素手で掴まれたかのような衝撃が、アイラの全身を貫いた。
すべての行動に、自分以外の理由などなかった。
その途方もない言葉の意味を理解した瞬間、アイラの頭の中は真っ白に染まり、息を吸うことすら忘れてしまった。
彼は、最初から自分だけを見ていたのだ。
周囲の賞賛も、高位貴族たちの媚びへつらいも、名門の令嬢たちの視線も、彼の瞳には一片たりとも映っていなかった。
彼はただ、この薄暗い工房の片隅で石を削る自分だけを、執拗なまでに求め続けていたのだ。
ユージーンがゆっくりと顔を上げた。
至近距離で交錯する彼の藍色の瞳には、もはや一片の迷いも残されていなかった。
冷徹な騎士の仮面は完全に剥ぎ取られ、そこにあるのは、十年前と同じようにアイラの手を握りしめる少年の、けれどそれよりも遥かに深く、狂おしい熱情を宿した大人の男の眼差しだった。
「俺の手を見てみろ」
ユージーンはアイラの手首を放し、自らの右手のひらを上に向けて差し出した。
無数の古傷と、剣を握り続けたことで硬く盛り上がった皮膚。
かつて原石を拾い集めていた頃の、柔らかかった少年の手は、もうどこにもない。
差し出された指の付け根、固くなった皮の裂け目に、黒ずんだ血が乾いていた。
その指先が、アイラの頬の産毛に触れるか触れないかの位置で微かに震えている。
戦場で数百の命を奪ってきた剛腕が、熟れすぎた果実に触れるのをためらう子供のように強張っていた。
「この手で、俺は多くのものを斬り伏せてきた。血にまみれ、人を殺し、街を守るための道具として磨き上げてきた手だ。……お前が触れるのを拒むなら、それも仕方のないことだと思っていた。だが、拒絶の理由が身分や他人の目だというなら、俺はそんなもの、今すぐにでも焼き捨ててみせる」
「そんな……無茶なことを言わないでください」
「無茶ではない。本気だ」
ユージーンの声音には、揺るぎない覚悟が満ちていた。
触れれば、自分が彼女を汚してしまうのではないか。
そんな微かな恐れが、彼の指の震えとなって現れていた。
アイラはその震えを見つめながら、胸の奥が熱く焼けるのを感じていた。
この男は、これほどまでに強大でありながら、これほどまでに脆いのだ。
自分の一言で絶望し、自分の一瞥で傷つき、自分に触れることすら恐れている。
なぜ、気づかなかったのだろう。
彼がどれほど自分を必要としていたか、その叫びが、対の魔石を通してずっと届いていたはずなのに。
自分を守るための殻に閉じこもり、彼の差し伸べる手を跳ね除け続けていたのは、他ならぬ自分自身だった。
「アイラ」
ユージーンが、唇をかすかに震わせながら、再びその名を呼んだ。
「俺には、お前が必要だ。侯爵家の跡取りとしてでも、騎士団の小隊長としてでもない。……ただのユージーンとして、お前の隣にいたい。お前の削る石の光を、一番近くで見つめていたい。それ以外のすべてを失ったとしても、俺はお前を選ぶ」
その言葉が、アイラの心の最後の防壁を、跡形もなく崩壊させた。
部屋を照らす青い光が、二人の体を包み込むようにふわりと広がる。
夜の帳が最も深くなる刻限。
二つの魂が、十年の歳月を超えて、ようやく同じ場所へと辿り着こうとしていた。




