第12話「躊躇いの果ての手のひら」
差し出されたユージーンの手のひらが、冷たい空気の中で静止していた。
指先がかすかに強張り、アイラの反応を待っている。
その手を取れば、もう二度と後戻りはできない。
公立工房の平穏な日常や、下位貴族の娘としての身軽な生き方は、確実に終わりを告げるだろう。
侯爵家の重圧、周囲からの嫉妬や中傷、貴族社会の冷ややかな視線。
彼の隣に立つということは、それらすべての嵐の中に、自らの足で飛び込むことを意味していた。
アイラの胸の奥で、長年培われてきた自己防衛の本能が、小さく警鐘を鳴らす。
逃げろ、と。
自分には荷が重すぎる、と。
アイラは無意識のうちに半歩、後ずさろうとした。
だが、引いた足の裏が床の板を踏みしめた瞬間、記憶の底から一つの情景が鮮烈に蘇った。
あれは、七歳の夏だった。
街外れの森で深い泥濘に足を取られ、靴を失って泣きじゃくるアイラを見つけ出したのは、泥だらけになったユージーンだった。
彼は自分の外套をアイラの足に巻きつけ、細い背中に背負って、夕暮れの街まで歩き続けた。
重い、とも、疲れた、とも一言も言わずに。
ただ、お前が無事でよかったと、擦り傷だらけの顔で笑っていた。
十歳のあの日もそうだった。
危険な鉱山へ一人で潜り込み、手のひらを血豆だらけにしながら掘り出してきた対の魔石を、自慢げに差し出してきた。
お前に調律してほしいんだ、と。
お前の魔力でなければ、この石は輝かないんだ、と。
彼はいつだって、手を差し伸べてくれていたのだ。
迷うこともなく、損得を考えることもなく、ただ純粋な想いだけを抱えて、アイラへ向けて真っ直ぐに手を伸ばし続けてくれていた。
逃げていたのは、いつも自分の方だった。
傷つくことを恐れ、身分の差を言い訳にし、彼の差し伸べる温かい手から目を逸らし続けていたのは、自分だったのだ。
「……もう、逃げません」
アイラは震える唇を開き、しっかりと前を見据えた。
後退しかけた右足を、力強く一歩、前へ踏み出す。
ユージーンの瞳が、驚きに見開かれた。
アイラは両手を持ち上げ、宙で止まっていた彼の大きな右手を、自らの手のひらで下から包み込んだ。
触れた瞬間、冷え切っていた皮膚に、彼の激しい体温が流れ込んできた。
硬い皮膚の感触。
幾筋もの古傷。
すべてが、彼が生きて、戦い、自分のもとへ戻ってくるために積み重ねてきた証だった。
「アイラ……?」
「逃げません、ユージーン。貴方が私を選んでくださるなら、私も、貴方から目を逸らしません」
アイラは彼の手を両手で強く握りしめ、自らの額へと引き寄せた。
彼の指先が、アイラの冷たい額に触れる。
その温もりが、涙で荒れた肌を優しく癒していくようだった。
「貴方の隣に立つのがどれほど恐ろしくても、周囲に何を言われようと……もう、他人のふりなんてしません。貴方のいない未来なんて、私には何の価値もありませんから」
「……あ」
ユージーンの喉から、かすれた吐息が漏れた。
彼の手が裏返り、アイラの両手を強く、包み込むように握り返してきた。
万力のような力だった。
痛むほどの強さで握り締められながら、アイラはその痛みを心地よいとすら感じていた。
互いの体温が、手のひらを通して激しく混ざり合っていく。
胸元の二つの魔石が、呼応するように眩い光を放った。
部屋の壁を青く染め上げるその輝きは、もはや乱れた波長など微塵も残していなかった。
滑らかで、力強く、どこまでも澄み渡った碧落の輝き。
二つの魂が重なり合い、十年間待ち望んでいた調和の音が、静寂の中に響き渡る。
◆ ◆ ◆
窓の外の空が、夜の闇から淡い群青色へと移ろい始めていた。
星都市アルケナの街並みが、朝靄の奥に静かに輪郭を現していく。
ユージーンの呼吸は落ち着き、青白かった頬には健康的な血色が戻っていた。
左腕の傷口は、魔石の同期によって活性化した本人の魔力によって、急速に塞がり始めていた。
二人は作業机の前に並んで座り、重なり合った手を解かないまま、白み始めた空を見つめていた。
「……ここから見る朝焼けも悪くないが、もっと綺麗に見える場所がある」
ユージーンが静かに口を開いた。
その横顔には、かつてアイラが見慣れていた、悪戯を思いついた少年の面影が宿っていた。
「覚えているか。旧市街の北にある、古い見張り塔を」
「覚えています。子供の頃、よく大人たちに隠れて登りましたね。原石の選別をするんだと言って、二人で日が暮れるまで過ごした場所です」
「今夜、あの場所へ来てほしい」
ユージーンがアイラの方を向き、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
藍色の瞳に、夜明けの微光が反射して煌めいている。
「怪我の報告と、坑道の討伐の始末を済ませたら、すぐに迎えに行く。……そこで、お前に渡したいものがあるんだ」
「渡したいもの……?」
「ああ。十年前、お前に渡したこの石の、本当の意味を伝えるために」
ユージーンの指先が、アイラの胸元に光るペンダントを優しく撫でた。
彼の眼差しに込められた熱い誓いに、アイラの胸骨が心地よく震える。
もう、疑う余地などどこにもなかった。
二人の間にあった見えない壁は、完全に消え去っていた。
「はい。待っています、ユージーン」
アイラが微笑むと、ユージーンの目元が柔らかく緩んだ。
彼がこれほど穏やかに笑う姿を見たのは、一体何年ぶりだろうか。
その笑顔を、これからは一番近くで見守り続けることができる。
その確信が、アイラの胸を温かい光で満たしていった。
東の空から差し込んできた朝の光が、重なり合う二人の手を、黄金色に染め上げていた。




