第13話「星見の塔に紡ぐ声」
西の空に残っていた茜色の残照が、濃紺の夜気へと溶け込んでいく。
公立工房の二階作業場で、アイラは身支度を整えていた。
油染みのついた作業用エプロンを脱ぎ、磨き抜かれた真鍮の留め具を持つ青灰色の外出着に袖を通す。
首元には、何年間も隠すように身につけていた銀枠のペンダントを、服の外側へと丁寧に出した。
磨き上げられた鉱物の表面は、夕暮れの淡い影を吸い込み、穏やかな微熱を保っている。
作業机の引き出しに鍵をかける必要は、もうなかった。
棚の上の道具類を整え、部屋を出ようとした時、引き戸が開いてレオンが姿を現した。
彼は工具袋を肩に掛け、アイラの装いを上から下へと眺めると、口元にからかうような笑みを浮かべた。
「おいおい、ずいぶんとめかしこんで、どこへ行くんだ。あの難しい顔をして石を削っていた職人と同一人物とは思えないな」
「……からかわないでください、先輩。少し、外の空気を吸いに行くだけです」
「外の空気、ね」
レオンは壁に背中を預け、腕組みをして小さく笑った。
彼の目には、昨日のような重い心配の色は欠片も残されていなかった。
「顔を見ればわかるよ。ようやく胸のつかえが取れたんだろ。……下で、いかにも近寄り難い顔をした護衛付きの旦那が待ってるぞ。あんまり待たせると、うちの工房の敷石が相手の鋭い視線で割れちまう」
「え……もう、いらしたのですか」
「ああ。さっさと行けよ。お前の代わりの点検作業なら、俺が引き受けてやるからさ」
レオンが軽く手を振る。
その背中を押してくれるような温かさに、アイラは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、レオン先輩。……行ってまいります」
◆ ◆ ◆
階段を駆け下りると、工房の正面入り口の前に、黒塗りの簡素な辻馬車が停まっていた。
御者台の横に立っていたのは、華美な軍服ではなく、仕立ての良い濃紺の上着を羽織ったユージーンだった。
包帯を巻かれた左腕は上着の袖に通されているものの、動きに不自然さはない。
アイラの姿を認めた瞬間、彼の藍色の瞳が柔らかく細められた。
「待たせたか」
「いいえ。ちょうど今、仕事が終わったところです」
ユージーンが右手を差し出してくる。
アイラは迷うことなく、自らの手をその大きな手のひらへと重ねた。
硬い皮膚の感触と、指先から伝わる確かな体温。
昨夜、調律室で確かめ合った温もりが、冷たい夜風を遮るように二人を包み込んだ。
◆ ◆ ◆
馬車は街の中央大通りを抜け、緩やかな坂道を上って旧市街の北端へと向かった。
車輪が石畳を転がる低い振動が、車内に心地よいリズムを刻んでいる。
やがて馬車が止まったのは、かつて都市の防衛線を担っていた古い見張り塔の麓だった。
風化した灰色の石造りの塔は、現在の防衛壁の外縁からわずかに外れた丘の上に孤立して建っている。
手すりのない外階段を、ユージーンがアイラの手を引きながら一歩ずつ上がっていった。
段差を踏みしめるたび、夜風が強まり、二人の衣服を激しくはためかせる。
最上階の見張り台へ辿り着いた瞬間、視界が一気に開けた。
「……すごい」
アイラの唇から、感嘆の息が漏れた。
眼下に広がるのは、星都市アルケナの全景だった。
暗闇の中に幾万もの魔石灯が青と白の光芒を散らし、まるで夜空の星座を地上にそのまま写し取ったかのような光景が広がっている。
遠く大通りを流れる光の川、防衛壁に沿って規則正しく灯る監視塔の篝火。
昼間のざわめきは遠くかすみ、ただ澄み切った風の音だけが、二人の足元を通り抜けていく。
ユージーンは欄干に手をつき、光の海を見下ろしていた。
彼の横顔に、街灯の淡い青白い光が落ち、整った輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。
「十年ぶりだな。ここに二人で来たのは」
「ええ。あの頃は、階段を登るだけで息が切れて、何度も貴方に手を引いてもらいました」
「あの頃から、お前は下ばかり見ていた」
ユージーンが苦笑を漏らし、アイラの方へと向き直った。
「落ちている石ころの波長ばかり気にして、俺がどれだけ話しかけても生返事しか返さなかった。……俺は、お前に振り向いてほしくて、必死で珍しい原石を探していたんだ」
「……知っていました」
アイラは小さくうなずき、自らの胸元にあるペンダントを指先で包み込んだ。
胸の奥底で、言葉の塊が熱を帯びて膨らんでいく。
今夜、この場所で伝えなければならないことがあった。
彼がどれほど自分を想い、どれほどの覚悟で歩み寄ってくれたかを知った今、自分自身の歪んでいた心のすべてを、嘘偽りなく差し出さなければならなかった。
アイラは深く息を吸い込み、ユージーンの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「ユージーン。私の話を聞いてください」
「ああ」
「私はずっと、卑怯でした。貴方が騎士団で功績を挙げ、遠い存在になっていくのを見ながら、私は身分の違いを盾にして逃げていました。……本当は、身分なんて理由じゃなかったのです」
アイラの声が、微かに震え始める。
夜風が冷たく頬を撫でるが、喉の奥は焼けるように熱かった。
「私はただ、怖かったのです。貴方の隣に立つことで、自分がどれほど取るに足らない存在であるかを思い知らされるのが怖かった。貴方がいつか私に飽き、本当の貴族の世界へ去ってしまうのではないかという恐怖に、耐えられなかったのです」
ユージーンは何も言わず、ただ静かにアイラの言葉を受け止めていた。
彼の藍色の瞳が、街の光を反射して揺らめいている。
「だから私は、貴方が差し伸べてくれた手を振り払い、わざと他人のふりをしました。貴方を傷つけることで、自分を守ろうとしていたのです。……最低でした。貴方の背負う孤独や重圧に気づきもせず、私は自分の小さな傷ばかりを庇っていました」
涙が込み上げてきて、視界がにじむ。
けれど、アイラは目を逸らさなかった。
溢れ出そうになる雫をまばたきで払い、自らの心の核を、震える声で差し出した。
「でも、貴方が血を流して倒れた時、思い知りました。貴方のいない世界で生きるくらいなら、どれほど傷ついても、どれほど泥にまみれても、貴方の隣で戦いたい。……私は、子供の頃からずっと、貴方だけを愛していました。世界中の誰よりも、ユージーン、貴方だけを」
告白の言葉が、夜の風の中に溶けていく。
アイラの全身から力が抜け、肩が小さく揺れた。
十年間、喉の奥に封じ込めてきた真実のすべてを、ついに吐き出したのだ。
見張り台の上に、長い、深い沈黙が落ちた。
ユージーンは微動だにせず、ただアイラを見つめ続けていた。
彼の表情は硬く引き締まり、息を吸うことすら忘れたかのように静まり返っている。
やがて、彼の薄い唇が微かに震え、藍色の瞳がゆっくりと細められた。
彼が一歩、足を踏み出す。
石造りの床を踏みしめる靴音が、静寂の中に硬く響いた。




