第8話「触れ合う熱の同期」
消毒液の刺激臭が、狭い調律室の空気を満たしていた。
アイラはユージーンの破れた上着のボタンを、震える指先で一つずつ外していった。
銀の飾りボタンが外れるたびに、厚手の布地の下から、過酷な鍛錬で引き締まった青年の胸板が露わになる。
白い肌には、過酷な軍務で刻まれた無数の小さな傷跡が残されていた。
そしてその中央、鎖骨の合間に、見覚えのある銀枠のペンダントが横たわっていた。
アイラのものと対をなす、原石の片割れ。
石は弱々しく、けれど深い藍色の光を内部でうごめかせていた。
アイラが布を押し当てて左腕の止血を試みるたび、二人の距離は限界まで近づく。
ユージーンの熱を帯びた呼気が、アイラの額や耳たぶをかすめた。
彼の浅い心音までが、直接皮膚を通して伝わってくるようだった。
「動かないでくださいね。毒素の核を針先で掻き出します。……患部の魔力回路を焼き切るような激痛が走ります」
「構わない。……早くやれ」
ユージーンは短く答え、目を閉じた。
アイラは右手に持った真鍮の極細針に自身の魔力を通し、傷口の最も深く変色した箇所へと刺し入れた。
針先が肉の奥の汚染された魔力塊に触れた瞬間、ユージーンの体がびくりと跳ね上がった。
喉から押し殺した低い呻き声が漏れる。
彼の右手が反射的にアイラの細い手首を掴んだ。
万力のように強い力だった。
骨がきしむほどの圧力に、アイラは痛みを覚えたが、針を握る指先だけは決してぶれさせなかった。
針先から青白い魔力の糸を送り込み、黒ずんだ毒素を絡め取っていく。
一ミリずつ、慎重に針を引く。
肉を裂くような苦痛が青年の全身を駆け巡り、ユージーンの額から大粒の汗が噴き出した。
「……っ、ぐ……」
「耐えてください……! もう少し、あと少しです……」
アイラは必死で呼びかけながら、自らの魔力を注ぎ続けた。
その時だった。
肌と肌を隔てるものが擦り切れた布地一枚となり、互いの吐息と血の熱さが溶け合ったことで、アイラの胸元のペンダントが強烈な熱を放って発光した。
同時に、ユージーンの胸元に垂れ下がっていた石が、呼応するように目も眩むような青い光を炸裂させた。
二つの光が、二人の至近距離の空間で交差し、螺旋を描いて絡み合う。
同期が始まったのだ。
長年封じられていた対の魔石が、強制的に波長を結合させ始めていた。
「あ……っ!」
アイラの脳裏に、激流のような感情が直接流れ込んできた。
それは、言葉を介さない、ユージーンの内面そのものだった。
息が詰まるほどの孤独。
周囲からの賞賛に対する冷めた軽蔑。
侯爵家の看板に押し潰されそうな重圧。
そして――それらすべてを塗りつぶすほどに強大で、狂おしいまでの、アイラに対する執着。
夜会で彼女が逃げ出した時の、身を裂かれるような絶望。
他の男と笑い合っていた彼女を見た瞬間に燃え盛った、暗い嫉妬。
触れたいのに触れられない、近づけば壊してしまうという激しい恐れ。
それらの感情が、濁流となってアイラの胸の奥へと雪崩れ込んできた。
(こんな……こんな重いものを、ずっと一人で……?)
アイラの目から、涙が止めどなく溢れ出した。
彼が自分を突き放していたのではない。
彼は、自分への巨大すぎる感情を持て余し、その激情に焼き尽くされそうになりながら、必死で理性の箍を締め直していたのだ。
他人行儀な態度で壁を作っていたのは自分の方だった。
彼の痛みに気づきもせず、一方的に殻に閉じこもっていたのは、自分自身だったのだ。
毒素の塊が針先と共に傷口から完全に引き抜かれ、黒い液体となって床の布へ落ちた。
アイラは素早く止血の軟膏を塗り込み、清潔な包帯を傷口に巻き付けていく。
対の魔石が強制同期したことにより、膨大な魔力がユージーンの傷ついた肉体へと過剰供給され、神経の痛覚を一時的な麻痺と興奮が包み込んでいた。
手首を掴んでいたユージーンの握力が、わずかに緩んだ。
だが、彼の手は離れなかった。
滑り落ちかけた彼の指先が、アイラの手のひらを包み込むようにして強く絡め取られた。
「……なぜ、泣く」
薄く目を開けたユージーンが、かすれた声で問いかけてきた。
二つの魔石は、まだ胸元で激しく青い燐光を放ち続けている。
光の明滅は、二人の高鳴る鼓動と完全に一致していた。
ユージーンの藍色の瞳には、もはや冷淡な仮面など微塵も残されていなかった。
剥き出しの熱情と、傷ついた少年の脆さが、そのまま映し出されている。
「お前が泣く理由が、どこにある。……俺が傷つくことなど、お前には何の関係もないはずだ。他人のように、遠くから礼を執っていればよかったはずだろう」
「関係なくなんて、ありません……!」
アイラは包帯を結び終え、その場に崩れ落ちるようにして彼の手を握り返した。
血と薬の匂いにまみれた彼の手を、自らの両手で包み込み、頬を押し当てた。
皮膚の温もりが、涙で濡れた頬へと伝わってくる。
「関係ないなんて、思えるはずがないでしょう……! こんなに痛そうなのに、こんなに苦しんでいるのに……私が、平気でいられるはずがない……!」
「なら、なぜ俺から逃げた」
ユージーンの指先が、アイラの頬を伝う涙を拭うように動いた。
彼の荒い呼気が、アイラの唇をかすめるほどの距離に落ちる。
「なぜ、あの男の前でだけ笑う。なぜ、俺の前ではあんな冷たい顔しか見せない。……俺が、どれだけお前を欲しているか、本当に何もわからないのか」
剥き出しの言葉が、夜の調律室に落ちた。
その響きには、もはや貴族としての体面も、小隊長としての誇りも含まれていなかった。
ただ一人の、愛に飢えた男の、悲痛な叫びだった。
二人の胸元で、青い光が波紋のように広がり、狭い部屋の壁を淡い青碧で染め上げていく。
長い間、二人を隔てていた分厚い氷の壁が、音を立てて砕け散ろうとしていた。




